上方落語の聖地を巡る

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上方落語の聖地 大阪編1

落語の中には失われた世界が息づく

産湯稲荷神社の正面入口 photo,2016
産湯稲荷神社の正面入口 photo,2016

    落語、特に私が生まれ育った地域でもあることから上方落語が好きでよく聴いている。落語の中には昔の言葉や生活スタイル、民間芸能など、当時は誰でも知っていたことが、今では分からなくなっていることが多くある。それが落語の中では今も活きている。また、具体的な地名が出てくることもよくある。落語の舞台になっている場所は地形や町の様子は今とは随分違っているが、当時の状況を理解することで話はより面白くなると思う。落語という媒体を通して上方の昔と今を理解する一助としたい。桂米朝『米朝ばなし』(講談社文庫)を参考にさせていただいた。


第1回  産湯


高津神社前で客待ちする車夫

   落語『稲荷車』に登場するのが、産湯。明治の初め頃の話で日本で発明された人力車が人々の足として活躍していた。落語では車夫が客待ちをしている。この日の高津神社の表門の様子を「夜の9時頃、今にも雨が降りそうなどんよりとした空、月も星も出ていない、山吹といううどん屋の灯りだけがぽっと見えている」と描写している。明治18年(1885)の「阪府麺類商見立」には山吹といううどん屋が3軒出ており、実際にあったのではないかと思われる。中折れ帽をかぶった紳士が産湯まで行ってくれと言う。車夫は産湯まで行くことを嫌がる。何故か。

上本町に森があった!

    高津宮から産湯神社までは約1.5㎞で歩いても大した距離ではない。人力車を使おうとしたのは、明治の頃は「産湯の森」と呼ばれる森が広がっており、夜も更けていたので人力車で帰ろうとしたのだ。車夫は狐に化かされるからと行きたがらないのを、車賃20銭出すと言って無理に行かせる。「大阪駅前の人力車」(『商業資料』明治33年)では1里未満は15町(1635m)ごとに7銭5厘以内、夜間は2割増なので9銭が車賃になるので、いかに高い車賃を出すと言ったかわかる。

桃の名所「桃山」

   産湯稲荷神社は式内社比売許曽神社末社で、境内には上の石碑がある。この神社の周辺は明治の頃には桃の林が広がる丘陵で桃の名所として「桃山」と呼ばれた。上町台地は西側が急な断層崖になっているのに対し、東側は緩傾斜の浸食谷となり、丘陵の桃山を東に進むと谷になり「桃谷」となる。人力車に乗った客は車夫が狐をこわがっているのをおもしろがって、「産湯稲荷の使い者」と言って乗り逃げするが、車に150円を忘れてしまう。福を授かったと思った車夫は長屋の連中を集めて祝いをする。150円忘れたことに気づいた客は長屋に行って「お目にかかってお願いしたいことがある」言う。車夫はみな喜んどります、こんなお陰をいただいてというと、客は穴があったら入りたいと言う。サゲはめっそうな、お社を作って、お祀りいたしますがな。    

   明治36年(1903)に大阪で開催された内国博覧会で見物人のために「人力車賃金表」が出されている。当時の交通の要所や名所である市内56箇所からの車賃が記載されている。その中に「高津社」が入っており、人力車が沢山集まり客待ちをする場所であったことがわかる。

産湯稲荷の周りは桃山と呼ばれた 2016
産湯稲荷の周りは桃山と呼ばれた 2016

産湯の謂れと産湯楼

産湯稲荷境内の井戸 2016
産湯稲荷境内の井戸 2016

    神社には左下の写真のように狐の像が置かれている。狐=お稲荷さんではなく、お使いです。昔の神様には大黒天と鼠、弁財天と蛇、毘沙門天と百足などのお使いがいる。「これ百足、この手紙を大急ぎで弁天さんのとこまで届けてくれ」と毘沙門さん。よっぽど経ってから見ると、まだ百足が土間でごそごそしている。「お前まだ行けへんのか、何をしてんねん」「草鞋履いてまんねん」と百足が言ったという小咄がある。この神社には左の写真の玉の井という井戸があった。豊かな地下水脈で大阪六清水に数えられ、近年まで湧出していた。藤原氏の祖とされる大小橋命がこの水を産湯に使ったことから、この名がついたと言われている。この落語の中に「産湯楼」という料亭の名前が出てくるが、大阪市役所編纂『明治大正 大阪市史 第一巻』に「見晴らし席貸にては玉造眞田山の呑春樓と桃山の産湯樓とが知られてゐた」と記されており、当時はかなり有名だったことがわかる。神主さんの話では若手落語家が高津社から産湯稲荷まで歩くというイベントがあるということだ。今では森の痕跡もなく、当時を物語るものは産湯稲荷神社のみだ。

☆産湯稲荷神社(大阪市天王寺区小橋町3-1) への行き方

   近鉄難波線上本町駅(徒歩9分)、地下鉄千日前線谷町9丁目駅(13分)

第2回  高津

高津宮の参道入口の鳥居 2016
高津宮の参道入口の鳥居 2016

高津宮には六つの神社

   「もうし、高倉はんへは、どういきます?」「こうずーっ(高津)と行きなはれ」というひとくち話があるように、高津宮の境内の中に高倉稲荷神社がある。高津宮の境内には高倉稲荷の他に比売古曽神社、安井稲荷神社、白菊神社、専念神社、常高神社など摂社・末社がある。難波高津宮に遷都した仁徳天皇を主祭神としている。天正11年(1583)に豊臣秀吉が大坂城築城の際に、現在の場所に比売古曽神社に遷座した。高津宮は『延陽伯』『崇徳院』『親子茶屋』『いもりの黒焼』『高倉狐』『高津の富』など多くの落語の舞台になっている。

高津宮から六甲山が見えた

   高津宮の様子をそれぞれの噺でみると、『延陽伯』では「わらわ、今朝、高津が社へ参詣なし、前なる白酒売茶店に休らう。遥か西方を眺むれば、六つの甲の頂きより、土風激しうして、小砂眼入す」とある。『崇徳院』では「ご参詣を済まして絵馬堂の茶店で一服した」「絵馬堂の茶店、向こう見晴らしがよろしいがな、道頓堀までみえまっせ」と表現されている。『摂津名所図絵  巻之四』には「この社頭は道頓堀の東に当たりて一堆の丘山なり。遥かに眺むれば大阪市涯の万戸・河口の帰帆・住吉の里・すみよしの浦・敷津・三津の浦まで一瞬の中にありて、難波津の美観なり。常に茶店に遠眼鏡を置いて詣人を悦ばしむ」と記されている。茶店からの眺望が良かったので望遠鏡が置かれていた。『浪速の賑ひ  初篇』には「摩耶山・武庫山・甲山」が見えたことが書かれている。 神主さんの話では茶店は絵馬堂横の階段下とのこと。

茶店のあった絵馬堂 2016
茶店のあった絵馬堂 2016

黒焼屋は何処にあった?

高津宮の下、黒焼屋の店(『摂津名所図会 巻之四』)
高津宮の下、黒焼屋の店(『摂津名所図会 巻之四』)

   『いもりの黒焼』『親子茶屋』には「高津の黒焼屋」が出てくる。左の絵図には「石階(いしだん)の下の植木店は和漢の草木を多く貯へて四時花たえず。あるいは花塩・黒焼店ありて常に賑しき宮居なり」とし、黒焼屋は「高津宮の下、黒焼屋の店には、虎の皮・豹の皮・熊の皮・狐・狸までも軒につりて、諸鳥は迦陵頻伽と鳳凰はなけれども、そのほかはことごとく双べて自在なり。黒焼は大きなるもの大鳳の翼、小さきものは蝸牛の角の国争ひまでも黒焼にして、店頭にその鍋を飾り、めざしきほど双べ賈ふなり」と説明されている。


狐を騙した男

   『高倉狐』では人間が狐を騙すという話で、狐が化けた女に「いやぁ〜、こんな綺麗な姐さんとご一緒さしてもらえんのも、こらやっぱり高津さん、高倉さんのご利益です、ありがたいこってす。湯豆腐屋でよろしいか」と店に入る。この店かどうかわからないが、高津宮の湯豆腐屋があった所は今は「藤壺」という料亭になっているらしい。「柏戸」という有名な湯豆腐屋もあった。話は酒を飲ませて、女が寝ているうちに男は逃げてしまう。寝ているうちに狐の姿に戻ったひどい目にあう。女仕返しされないために男は狐の穴を探して謝りに行く。今は見られなくなったが、昔は高倉稲荷の周りには多くの狐の穴があったようだ。

高津宮で富クジの抽選

  『高津の富』では因州鳥取の金持ちと偽って男は宿屋に泊まるが、持ち金がほとんどないのに宿屋の主人に富札を買わされてしまう。当たりクジを決める日の様子を落語では「正面拝殿の前には三方の上に白木の箱が置いてございます。この中へ札がはいったぁるわけで、横手に十ぐらいの可愛らしい男の子、熨斗目の裃を着せまして柄の長いキリのようなものが一本持たせて……プツッ、シュッと引き上げますというと先に小さな札が一枚付いて上がってまいります」と表現されている。左の写真は拝殿だが、この前で富クジの抽選が行われた。この話の中で男が「おれの口をばヒジメルな」という台詞が出てくるが、「食物を与えないこと」(『大阪ことば辞典』)で現在は死語になっている。高津宮の境内にはプロからアマチュアまで多くの落語会で利用できる「高津の富亭」と名付けられた建物がある。参集殿の建物を使ったものだが、近くには『五代目桂文枝之碑』があり、案内板には「桂文枝一周忌にあたる平成十八年三月の建立された。文枝師匠は平成十二年より平成十七年まで、高津の富亭にかかさず出演し、平成十七年一月十日のどんと祭が最後の高座となった。このような経緯により五代目桂文枝を顕彰する碑が建立された。石碑の題字は長年の盟友であった三代目桂春團治師匠の筆による」と記されている。

☆高津宮(大阪市南区高津町1丁目)への行き方

   近鉄難波線上本町駅(徒歩10分)、地下鉄千日前線谷町9丁目駅(徒歩4分) 

高津宮の拝殿 2016
高津宮の拝殿 2016

第3回  堀江

和光寺の中にある阿弥陀池 2016
和光寺の中にある阿弥陀池 2016

 日露戦争の"戦後落語"

   堀江を舞台にしたい落語には『阿弥陀池』『ぞろぞろ』がある。『阿弥陀池』では「新聞みたいなもん読まんかて、わたいら、世間のこと何でも知ってまっせ」と新聞を読まない男に、和光寺を知っているかと問う所から始まる。男は和光寺が阿弥陀池であることを知らなかった。「和光寺は元禄11年(1698)堀江新地開発のとき、智善上人が建立した。本尊は丈1尺5寸の金銅阿弥陀如来である。境内の池から善光寺(長野)本尊ともいわれる阿弥陀如来が出現したことから、通称阿弥陀池ともいわれ江戸時代から多くの人々に親しまれている」と境内の案内板にあるように一般には阿弥陀池で知られていた。阿弥陀池に盗人が入った話をする。盗人がピストルを向けた尼さんが自分の命の恩人である日露戦争で戦死した山本大尉の未亡人と知って土下座をして改心する。尼さんは盗人に誰にそそのかされて盗みに入ったのかと聞くと、盗人は「阿弥陀が行け(池)と言いました」。真剣に話を聞いていた男は作り話と知って悔しがる。『米朝ばなし』では"戦後落語"と記されている。

新聞の時代を反映した作品

   『阿弥陀池』は桂文屋という人が明治40年(1907)頃に作った作品。新聞は明治になって文明開化の広がりの中で多数創刊された。1874年『讀賣新聞』1879年『朝日新聞』が創刊され、日清戦争や日露戦争の戦時報道が行われ、論説中心から報道取材が行われるようになる。ポーツマス条約の講和条件の新聞報道から日比谷焼打事件が起こるなど、新聞の社会に与える影響や役割が大きくなった時代を反映している。この落語には日露戦争の話が出てくるが、時代を感じさせる作品になっている。

阿弥陀池の方光閣 2016
阿弥陀池の方光閣 2016

有名で人気があった赤手拭稲荷

赤手拭稲荷神社の鳥居  2017
赤手拭稲荷神社の鳥居 2017

  落語『ぞろぞろ』では赤手拭稲荷神社が舞台になっている。『浪速区史』には「伝によれば、慶長年間中堤の中央に一大老松があって浪除松といわれ、その樹下に祀られた神祀であるところから松の稲荷と称したが、不思議の霊験を蒙ったものが、ここに集り神社を建て、紅染めの手拭を祠前に献じたのが恒例になって赤手拭稲荷というようになった」と記されている。橘ノ円都の落語の枕で赤手拭稲荷は大阪以外の人でも知っているぐらい有名で大変人気があったが、明治維新前頃からさびれたようだ。

草鞋がぞろぞろと

   落語では、この神社の門前で荒物を売る店の夫婦は「今朝からまだ一人もお参りがないじゃろ」とぼやく。「どうぞご利益をお授けくださいませ」と一生懸命にお祈りをする。店には売り物は草鞋一足しかなかった。「草鞋おくれ」とすぐに客が来る。売れて店に売り物がないはずなのに、客が来ると不思議にも草鞋がある。その草履を引っ張ると、次の草履がずーっと降りてくる。その店から次々と草鞋を下げた客が出てくるのを見た向かいの床屋も「向かいの草鞋と同じご利益を」と拝殿に向かって願いをかける。この床屋にもぞろぞろと客が押し寄せる。床屋が剃刀で髭を見事に剃る。サゲは剃ったあとから髭がぞろぞろ。江戸落語では太郎稲荷が舞台。
 
 ☆赤手拭稲荷神社(大阪市浪速区稲荷2丁目6-26)への行き方   


   地下鉄千日前線桜川駅(徒歩4分)、南海汐見橋線汐見橋駅(徒歩3分)
   地下鉄長堀鶴見緑地線、千日前線西長堀駅(徒歩4分)

 

お祈りをした赤手拭稲荷神社の拝殿 2017
お祈りをした赤手拭稲荷神社の拝殿 2017