上方落語の聖地 大阪編7
第25回 逢坂
急な坂で事故が多発した逢坂
逢坂は「天王寺区松屋町筋終点、いわゆる合法ヶ辻から東へ上って四天王寺西門に至る坂である。逢坂は、逢坂の関になぞらえてよんだものとも、他説では聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせたと言われた『合法四会』に近いことにより合坂と名づけられなどの諸説がある」と右の写真の説明板には記されている。逢坂は上町台地の西側の急崖にできた谷道で、往来が激しく道も狭いので荷車暴走などの事故多発地点となったので、明治9年(1876)に地元有志によって坂を切り崩して緩やかにする工事が行われた。天王寺七坂の一つ。坂の南側の一心寺は文治元年(1185)開基の浄土宗の寺院で「元祖法然上人日想観を修したまふ霊場にして、後白河法皇もここにて鳳輦(みぐるま)をとどめさせたまひ、相共に日想観を修したまふ旧跡」(『浪華の賑ひ 二篇』)で、北側の安居天満宮は「一説に菅公筑紫に左遷の御時、ここにしばし休らひたまふにより、かくは号(なづ)くといふ。この地は小高き丘にして眺望よく、そのうへ社頭には数株(すちゅう)の桜ありて、花の頃はひとしほ賑はし」(『同前』)とし、眞田信繁が大坂夏の陣で討死した地としても有名。さらに坂を下りると聖徳太子の開基と伝えられる合邦辻閻魔堂がある。
幽霊を女房にした変ちきの源助
落語『天神山』は一心寺と安居天満宮を舞台にしている。春の陽気に誘われ人々は花見に出かける。そんな中、頭の半分を剃って半分を伸ばし、肩の所は単衣、腰の辺りは合わせ、裾の辺りは綿入れ、白足袋と紺足袋を片方ずつ履くという変わった服装をした変ちきの源助も出かける。花見に行くのかと問われると、源助は墓見に行くと答える。尿瓶酒とオマル弁当を持って一心寺にやって来る。「俗名小糸」と書いてある石塔の前で呑むことにした。一人でしゃべって、一人で呑んで帰ろうとすると、土が盛り上がっているのに気づき掘り返してみると舎利頭が出て来る。舎利頭を懐に入れて帰り、仏壇の前に置いて寝てしまう。夜中に表の戸を叩く音。幽霊がお礼を言いに来たという。戸の隙間から入って来たのは若い綺麗な女の幽霊で、身の上話を始める。京都西陣の織屋清兵衛の娘小糸で、奉公先で知りあった男とこの世で添い遂げられないと、一心寺で心中するが、死に姿を見て男は逃げてしまう。女の幽霊は結構な手向けのお礼に来た。女房にしてくれと言う。源助は簡単な祝言をあげ幽霊を嬶にする。
狐を女房にした胴乱の安兵衛
夜が明けて、源助が幽霊を嬶にしたことを聞いて、隣に住む胴乱の安兵衛も舎利頭を探しに一心寺に行く。見つからないので向かいの天神山、安居天神に行く。裏手の崖に行くと若い男が頬被りして穴に逃げ込んだ狐を獲ろうとしている。穴から飛び出した狐に縄を投げて捕まえた。安兵衛は狐が高津の黒焼屋に売られ黒焼にされると聞いて、逃がしてやりたいから売ってくれと言う。逃がした狐は若い女に化けて安兵衛の後を追って来て嬶になる。子ども出来て、3年ほどすると長屋の者に正体を悟られる。狐は子どもに事情を説明し、安兵衛に「恋しくば尋ねきてみよ、南なる天神山の森の中まで」と障子に歌を書き残して天神山の古巣へ帰って行く。芝居の蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)「葛の葉の子別れ」をもじって、「貸家道楽大裏長屋、愚図の嬶の子放ったらかし」がサゲ。芝居では陰陽師安倍晴明の出生秘話として描かれている。
☆一心寺(大阪市天王寺区逢坂2丁目8-69)への行き方
地下鉄堺筋線恵美須町駅(徒歩8分)、地下鉄谷町線天王寺駅・四天王寺駅(徒歩9分)
第26回 天王寺
四天王寺を中心とする地域
天王寺は上町台地南東端に位置し、平安・鎌倉期の史料に出てくるが、全て四天王寺を指している。南北朝期には寺名あるいは四天王寺を中心とした地域を指す地名として使われるようになった。仏教を巡って廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏が用明天皇2年(587)に戦ったが、苦戦していた蘇我氏の一員であった厩戸皇子(聖徳太子)は勝利できたなら四天王を安置する寺を建てることを誓った。『日本書紀』には「難波の荒陵(あらはか)」の地に四天王寺を建立したとあるが、『四天王寺御手印縁起』には「玉造岸上」にあった四天王寺を「荒陵郷」に移したと記されているが、玉造に寺跡らしきものは不明で移建説には問題が残る。荒陵は従来考えられていた茶臼山古墳ではなく、古墳時代中期の遺物が出たことから四天王寺の現在地であることが実証されつつある。四天王寺は救世観音を本尊とし、荒陵山敬田院と言い、昭和21年(1946)に天台宗から独立し和宗総本山を称している。
四天王寺西門の石の鳥居
落語『天王寺詣り』は天王寺が舞台。天王寺詣りは、平安末期の末法思想による浄土信仰の広まりにより、住吉詣り、熊野詣りとともに四天王寺も霊地として信仰が盛んとなり、門前町として発展した。右の絵には「石の鳥居は西門の外にあり。もとは衡門(かぶきもん)にして、木にて造られしが、年久しく朽ち傾きけるを、伏見の院の御宇永仁二年に忍性上人石を以て造り、改めらるるとなり。額の文に曰く『釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心』」と記されている。衡門は2本の柱に横木をかけ渡しただけの粗末な門のことで、木の門から石の門に変わった経緯がわかる。
四天王寺の行事は「年中、法延間断なく四時とも詣人繁し。なかんづく、二月涅槃精霊会を大会と称す。また、春秋両度の彼岸会、七月千日詣等は殊更に群参して雲霞(うんか)のごとし」(『浪華の賑ひ 二篇』)と表現され、彼岸は「梵語のパーラミター(波羅蜜多)の訳。即ち、迷いや苦しみの多い此の岸から、迷いの無い悟りの世界(彼岸)へ渡ること」(『大阪の祭り』)で、彼岸の1日を描いた落語。
死んだ犬の供養に引導鐘をつく
噺は四天王寺とその近辺の案内にもなっている。男は彼岸の日に引導鐘を撞いて無縁の仏の供養ができると聞く。飼っていたクロという犬が子どもに棒で頭をどつかれて死んだので供養してやりたいと言う。二人の男は下寺町から逢坂の合邦辻、西に新世界、通天閣を見て一心寺、向かいの安居の天神さんと通って四天王寺の石の鳥居に着く。吉野の唐金の鳥居、安芸の宮島の楠の鳥居とともに「日本の三鳥居」。鳥居を入ると、ポンポン石、納骨堂、西門、輪宝、義経の鎧掛け松、文殊堂、金堂、五重塔、南門の仁王さん、虎の門、そして太子堂の引導鐘までの道筋。その先に左甚五郎作の猫の門、用明殿、16歳の太子像、亀井水、瓢箪の池、東門、釘無堂、本坊、釈迦堂、大釣鐘、足形の石、鏡の池、伶人の舞台と四天王寺の中の説明も兼ねる。引導鐘を撞いてもらうと「クロが鐘に乗り移っている」言う。鐘の音がクロの鳴き声似ていると言うのだ。最後の3つ目の引導鐘を撞かせてくれと男は言う。「クロ、ええ声でたのむで。ひいのふのみっつ」「ああ、無礙性(むげっしょう)にはどつけんもんや」というのがサゲ。無礙性は仏教用語だが、思い切りという意味になる。
☆四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺1丁目1-11-18)への行き方
地下鉄谷町線四天王寺前夕陽丘駅(徒歩10分)、JR天王寺駅(徒歩10分)
第27回 住友の浜
銅精錬で発展する住友家
東横堀川の川岸に住友長堀銅吹所が開設され、住友家の店舗や屋敷も隣接していたので、この川辺りが「住友の浜」と呼ばれた。東横堀川は大坂で最古の堀川で、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命により開削された。大坂冬の陣の和睦の条件として埋め立てられ、大坂夏の陣で大坂城が落城するとすぐに掘り返された。住友家の先祖は柴田勝家に仕えた武士と伝えられ、初代住友正友の娘の夫蘇我理右衛門が銅と銀を吹き分ける南蛮吹きの銅精錬技術を習得し、京都に店を出した。その子の理兵衞は住友友以を名乗り、大坂の淡路町に吹所を設け、寛永13年(1636)に長堀にも吹所を設けた。長崎貿易の主要輸出品が銀から銅になり、住友家の銅鉱業、銅精錬が著しく発達する。
とうはんを恐がらせたことから
落語『次の御曜日』は 住友の浜が舞台。安堂寺町の堅気屋佐兵衛の店の土用の丑の昼時。昼食を済ました丁稚の常吉はとうはんのいとのお供で縫い物屋に行くように言われる。二人は口喧嘩をしながら南へ南へ歩いて行くと、今は長堀川の埋め立てで撤去された安綿橋の南側の住友の屋敷があった場所に出る。住友の浜と言われていろ。昼間でも人通りの少ない寂し所だったようで、二人は怖いなと思いながら歩いていた。ここに纏を持ち、消防方をやっている天王寺屋藤吉という男がやって来る。真夏の暑い中、男は下はフンドシ、上は法被を頭の上まで高くかざしていたので、背の高い大きな男に見えた。怖いと思った二人はボロ屋の用水桶の陰に隠れた。怖がっているとわかった藤吉はもうちょっと怖がらしてやろうと、二人に近づいていって『アッ』と大きな声を出した。この声にとうはんはひっくり返ってしまう。ショックでとうはんが記憶喪失になってしまったので、激怒した堅気屋佐兵衛は天王寺屋藤吉を西町奉行所に訴えた。奉行所での裁きでは藤吉が『アッ』と言ったかどうかが問題になる。「アッと申したものなら、アッと申したと申してみい」と奉行が繰り返す。「この上は重き拷問を用いても『アッ』と申したと申さしめてみせるがどうじゃ」と奉行は迫る。奉行は「アッ、アッ」と繰り返すうちに普段の声が出なくなり、「一同の者、今日はこれまでに致す。次の御曜日を待て」というのがサゲ。
奉行佐々木信濃守と桶職人の息子四郎吉の知恵比べ
落語『佐々木裁き』も住友の浜が舞台。西町奉行として登場するのが佐々木信濃守で嘉永5年(1852)に大坂に赴任した佐々木顕発(あきのぶ)という実在の人物。大坂町奉行は3000石前後の旗本が選任され、元和2年(1619)に久貝正俊・嶋田直時が任じられたのが始め。町奉行所は京橋口門外に接して東西町奉行所が置かれたが、享保9年(1724)の大火で焼け、西町奉行所は本町橋東詰に移った。奉行の属僚である与力・同心は天満川崎村に屋敷地が与えられた。両町奉行は1か月交替で月番と非番に分かれた。佐々木信濃守は賄賂が横行する悪習を何とかしたいと思い市中を見回っていた。今日も家来の三蔵を連れて住友の浜と呼ばれる安綿橋の南詰にやって来ると、大勢の子どもが集まって遊んでいる。2人の子どもが後ろ手にくくられ、竹の棒で尻をどやされながら歩いている。材木置き場の砂利の上にムシロを敷き2人は座らされ、別の子どもが材木の上に上がって、「余は西町奉行佐々木信濃守である」と言う。一から十まで「つ」は揃っているか揃っていないかということで2人は喧嘩口論になっていた。奉行役の子どもは2人に「特別の憐憫を以て本日はさし許す」と解決するが、今度は奉行役の子どもに「つ」は揃っているかどうかをたずねる。「つ」は揃っていると答えると、十(と)つとは言わないではないかと迫る。奉行役の子は五(いつ)つに「つ」が二つあり、十に付くはずの「つ」を取っており、一から十まで「つ」は揃っていると解決する。その様子を見ていた佐々木信濃守は感心して、町役付き添いの上、奉行役の子どもを親と共に西町奉行所に連れて来るように家来の三蔵に命じる。 奉行役の子は桶職人の息子四郎吉と言い、奉行所にやって来て信濃守と知恵比べをする。四郎吉の知恵の驚いた信濃守は「かかる小児は導きようで、天晴れ世の役に立つ人間にもなろうが、一つ間違えれば恐ろしき人物になるやも知れぬ。十五になるまでその方の手元に置け、十五にならば身共が引き取って養育してとらす」、のちに有名な天満与力と出世をいたします、生い立ちのお話でございますと、サゲはありません。
☆住友銅吹所跡(大阪市中央区島之内1丁目1-1)への行き方
地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅(徒歩4分)