上方落語の聖地 大阪編2
第4回 堂島
堂島の謂れは
上町台地は北端の大坂城付近が最も高く、その先は天満砂推になる。天満砂堆は洪積層(天満層)とその上に淀川、旧大和川よって堆積された沖積層(梅田層)の二層で形成され、淀川の土砂の堆積でできた多くの砂洲を難波八十島と呼んだ。曾根崎川と堂島川に挟まれた中洲から胴島といい堂島になったという説、鼓の筒にたとえて筒島から転じたという説、四天王寺創建時に御堂の用材を置いたためという説がある。元禄元年(1688)に堂島川改修と九条島の新堀川開削に伴い堂島新地が造られた。堂島米市場は左の写真の記念碑の建つ堂島川北の辺りのあった。
相場師の気質
落語『鹿政談』の枕に大坂の名物として「橋に船、お城、芝居に、米相場、総嫁、揚屋に、石屋、植木屋」とあり、「天下の台所」大坂の米市場は全国の米相場の中心だった。堂島を扱った落語に『米揚げいかき』『住吉駕籠』がある。
『米揚げいかき』では小遣い儲けで売り子になった男は「大マメ、中マメ、小マメ、米揚げいかき」の売り声でいかきを売り歩く。いかきはザルのことで、米相場師は売り声の「あげる」という言葉が気に入っていかきを買ってやる。
『住吉駕籠』では駕籠屋に内緒で二人の相場師が相乗りして、「堂島へやってくれ」という。二人は意見が対立して駕籠の中で相撲を取り、駕籠の底を抜いてしまう。駕籠屋は「降りてくれ」というが「一旦乗った相場を途中で降りたことがないのがわしらの誇りや」と言って、駕籠の中で客は走って行く。強気の相場師は下がるや降りるということを嫌う。相場師の気質が面白く表現されている。
世界最初の先物取引市場
右の絵は堂島米市場だが、どこにも米が描かれていない。米市場では大名の蔵屋敷の米を入札して、落札した商人に米切手を渡す。米切手を蔵屋敷に持って行くと米に交換できる。堂島は遊女町だったが、江戸時代初期に淀屋橋南詰にあった米市場が元禄10年(1697)に堂島に移転。幕府が米切手を認めたのは享保年代(1716〜)で、シカゴで先物取引市場が現れる百年も前のことだ。
絵の中には「人気天を知って指頭を回らす/市の声は谷に響く乾坤州/草鞋腰に付け千万を賈(あきな)ふ/水を散らせば雲と作る謳曳(おうひき)の眸(まなじり)」と書かれいる。ハンドサインで米切手の売買をしている様子が描かれている。米切手は堂島米市場だけで扱われた。堂島でついた米の値段が全国の米相場の基準になった。
左下の写真は浜の字を図案化したもので、堂島の連中が「濱」の字の入った羽織を作り、それを着ていくと茶屋や料亭の扱いが違ったというほど堂島では権威があった。大坂では川岸を浜とよんだ。下の絵には「当浜の左右ともに潔き家宅(いへいへ)軒をならべ売買の客を請待す」と書かれ、商人の町として発展した堂島の繁盛ぶりがうかがえる。第5回 下寺町
寺町はどのように創られたのか
下寺町は上町台地の西側にあり、比高15mの断層崖の下に立地し、源聖寺坂・口縄坂などがつくられた。元和元年(1615)に徳川家康の外孫松平忠明が大坂城主となり、大坂の陣で被害を受けた大坂の町の復興事業に当たった。元禄12年(1692)に『大坂濫觴一件』が出され大坂市中の寺院の集中と墓地の移転が行われた。大坂城の南側の防御線として諸宗の寺院を小橋村・東西高津村・天満村の三ヶ所に集中移転させた。この時に上町台地西麓の位置する下寺町は西寺町とも呼ばれた。浄土真宗寺院は一向一揆を戦ったこともあり、寺町から除外された。下寺町には松屋町筋沿いに、今も24の浄土宗の寺院が並んでいる。
「ずく念寺」はどこに
下寺町を舞台にした落語に『八五郎坊主』がある。自らを「つまらん奴」という八五郎が僧侶になりたいと言って甚兵衛さんに紹介状を書いてもらう。紹介してもらったのが下寺町の「ずく念寺」で「大きな銀杏の木がございます。尊いお寺は御門 からと申しまして、立派な御門を内らへ入りますと、片方には釣鐘堂、板石が敷き詰めてございまして石畳、左右には鶏頭の花が真っ赤に咲いております」と描写されている。実際に有りそうな感じで描かれているが、空襲で多くの寺が焼失したこともあり、モデルになった寺があったのかどうかよくわからない。
サゲも時代とともに
この噺には「坊主山道破れた衣、行きし戻りが気にかかる、チョンコチョンコ」「坊主抱いて寝りゃかわゆてならぬ、どこが尻やら頭やら、チョンコチョンコ」と歌うチョンコ節が出てくる。江戸時代に流行った春歌で、この落語の中に生きて残っている。八五郎は法春という僧名をもらうが「はしか(麻疹)も軽けりゃ、ほおしゅん(疱瘡)も軽い」と洒落を言った尻から名前を忘れる。紙に名前を書いてもらい甚兵衛さんに報告に行くが、途中で友達に出合い僧名の「法春」の読み方を巡って、最後は御法(みのり)のノリ、春は春日のカスで「ノリカス」かと聞くと「ノリカス?そうかもわからんで。するなり、つけるなりじゃ」がサゲで理解できない。『米朝ばなし」では「ノリにするために、ご飯つぶをすっては水につけたり」ということらしい。桂枝雀の噺では「わいの名前はなはしかちゅうねん」とサゲを変えて演じられている。
墓に石碑に、下寺町の見所いろいろ
下寺町の北側の大蓮寺には石門心学の祖石田梅岩と門弟手島堵庵の墓、無名芸人を偲ぶ吉本芸人塚がある。浄国寺には日本三太夫の一人の夕霧太夫の「此塚は柳なくてもあはれ也」の句碑と墓、俳人升屋六兵衛の墓。萬福寺は文久3年(1863)〜慶応3年(1867)に新撰組の大坂駐屯地とされた。光明寺には狩野派の大岡春卜の襖絵・屏風があり、心学の功労者中井利安の墓。西照寺には懐徳堂の創始者の一人富永芳春の墓。正覚寺には俳人松瀬青々の墓。天王寺七坂の中でも風情のある源聖寺坂、口縄坂などもある。
☆下寺町(大阪市天王寺区下寺町1〜2丁目)への行き方
地下鉄千日前線谷町9丁目(徒歩6分)、地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅(徒歩6分)
第6回 日本橋
重要な公儀橋の一つ
江戸時代の大坂の名物は堂島の項でも書いたが、「橋に船」から始まる。浪速八百八橋といわれる大坂は河口に位置し、堀川が縦横に流れ、元禄の頃には主要な橋が出そろう。道頓堀川に架かる日本橋は大坂にある十二の公儀橋の一つで、「大坂城の防衛という軍事的観点からすれば重要な橋で」(『新修 大阪市史 第三巻』)あり、他とは区別された。公儀橋は幕府が設置も架橋も決定し、費用もほとんど負担した。管理は大坂城代・大坂町奉行が当たった。江戸時代には、日本橋は「南詰に高札場があり、橋上で罪人をさらしものにしたという。北詰には讃岐の金刀比羅参宮詣船の発着場」(『大阪府地名大辞典』)となっていた。
旅人宿の集まる日本橋
日本橋を舞台にした落語に『宿屋仇』『試し斬り』がある。日本橋は紀州街道の起点で、南下すると日本橋筋の長町から堺・紀州に至る。長町は大坂南口の交通の要衝で旅籠屋・木賃宿・商家が軒を並べている。右の絵は日本橋を描いたもので「道頓堀川十橋の内、川上より第二の大橋なり。両岸には端麗(きらやか)なる旅舎(はたごや)多く」と説明されている。『宿屋仇』では日本橋の宿場町の様子を「平生は一つの鍋の物を食べるように仲よういたしますが、日が暮れになりますと商売敵ですな、軒並みずっと一生懸命客を呼んでます」と表現している。紀州屋という宿の伊八に、明石藩の武士が前夜岸和田の宿で眠れなかったので、二朱の心付けを渡して静かな部屋に案内させた。伊勢参りをすました兵庫の騒がしい三人連れを隣の部屋に入れた。三人は芸者を呼んだり、相撲を取ったり、そのたびに侍に怒られる。仕方なく色事話を始めた三人の中の源兵衛が侍の女房に間男をして二人殺して逃げていると言い出す。侍は源兵衛こそが仇で明日仇討ちをするというので、源兵衛は嘘の話というが聞き入れられず、三人は青菜に塩でしゅんとなってしまう。翌朝、伊八は旅立つ侍に仇に付いて聞くと、あれは嘘だと言う。何で嘘を、サゲは「ああ申さんと、また夜通し寝かしおらんわい。
乞食が多かった日本橋周辺で試し斬り
『試し斬り』では侍が安い値段で買った新身の刀を掘り出し物と思い試し斬りをしたいと考える。他の侍が夕べ日本橋の南詰めで寝ている乞食を試し斬りしたと言う。前夜試し斬りをしたりという場所に行くと乞食が寝ていた。侍が斬り付けると、乞食は薦(こも、筵)を跳ねのけて、「どいつや、毎晩毎晩どつきに来るのは」がサゲ。乞食は野非人と言われ「さまざまな事情からその出生地・居住地を出奔、または追放され、食を求めて流浪し、大都市大坂に流入した人々」で「納屋下や橋下に住」み、「往来の非人」(『新修
大阪市史 第三巻』)とも呼ばれた。17世紀後半に乞食が増えたのは「初期には早く死亡した乞食が、経済発展により生活に余裕ができていた都市のなかで、生命を維持しえた」(脇田修『近世大坂の町と人』)のだと思われる。日本橋筋の長町や道頓堀周辺に木賃宿を置き、乞食や浜立女(売春婦)も収入があれば宿泊し、無宿人をこの地域に封じ込めようとした。浜立女は「総嫁」ともいい、大坂の名物の一つになるほど多かったようだ。
「おんかかみところ」の読み方
『鏡屋女房』は小咄で、伊勢参りの帰りや田舎から大坂見物にやって来た者は必ず日本橋に行き、道頓堀で芝居を観た。「橋詰の出し店、鮮魚の立売、朝には足もとせはしき芝居行、夕には漂ひもどる住吉詣、あるいは土産買ふ老人・鮓(すし)の立喰する鉢巻男(であひ)・滞留の旅客・出船まつ上京(きょうのぼり)など皆この所の賑ひなり」と日本橋の様子を表現している。見物客は大坂に来てウロウロ、物珍しそうにキョロキョロしていると、鏡屋の看板が見える。看板には「おんかかみところ(御鏡所)」と書いてあった。濁りを打たないのが昔の習慣で「御嬶(かか)見所」と読んで、大坂には嬶(女房)を見せる所があるのかと驚く。覗いて見ると部屋の真ん中に若い綺麗な女房が座っていた。こんな美しい女は滅多にいないと村へ帰って他のことは全部忘れて、「大坂の日本橋には日本一美しい嬶様がおる。是非見て来い」といって、次の年の伊勢参りの帰りの観光コースになってしまった。芝居も観ずに、御嬶様が見たいと店のある場所に行くが、1年経つうちに鏡屋は宿替して、後に三味線屋が入った。店を覗いて見ると若い女房ではなく、お婆んが座っていた。その店の看板を見ると「ことしゃみせん(琴三味線)」と書いてある。「ああ、あかんわ、今年しゃ見せん」と書いてある。仮名で書いた文の読み方の面白さがよく分かる。この話の枕に数珠屋に「ふたえにまきてくびにかけるようなじゅず」を注文した話がある。「二重に巻きて、首に掛けるような数珠」は大きな数珠だが、「二重に巻き、手首に掛けるような数珠」なら小さな数珠になる。句読点の打ち方で大きさが違ってしまうという面白さが出ている。
☆日本橋(大阪市中央区宗右衛門町3)への行き方
近鉄難波線、地下鉄千日前線日本橋駅(徒歩4分)
第7回 坂町
伏見町人の移住で出来た町
伏見の坂町の町人は、「元和5年に将軍秀忠の命で、大坂繁盛のため伏見108軒が移転を命ぜられたとき、水帳(土地台帳)どおりの間数の土地を玉造で、拝領し、町名を伏見坂町と仰せ付けられたが、その後さらに難波村・高津村に移されて『伏見坂町』とな」(『新修 大阪市史 第三巻』)った。元和5年(1619)に伏見廃城が決定され、西日本支配の拠点が大坂城に移されたことによる移転であった。
坂町は水商売・茶屋商売の町に
落語『口合小町』は坂町を舞台にしている。駄洒落とか洒落のことを関西では口合と言った。「口合は粋(すい)の水上(粋の第一人者)」と言われ、昔は良く流行ったそうだ。話は甚兵衛はんが佐助の家を訪ると上さんが亭主に腹を立てているところが始まり。理由を聞くと、上町のオバハンの見舞いに行くと家を出るが、怪しいと思って亭主の後をつける。船場から堺筋を南に、上町と方角の違う道頓堀に来る。話の中では「道頓堀の二井(ふたついど)の辺りで岩おこしでも買うて手土産」というセリフがある。下の絵はニ井だが、安政2年(1855)に出版された『浪華の賑ひ』には「近来、この辺に粟の岩おこしの名物出来てより、童までもニ井の名を聞き覚ゆ」と記され、幕末期には誰もが知る名物になっていたことがわかる。地名はこの井戸に因んだもの。明治22年(1889)に道路の整理拡張で井戸が埋められ、岩おこし屋の津の清が井桁の払い下げをうけて自店前に据え付けた。坂町の様子は「芝居の裏の方にずうっと出て来て坂町の方に出て来て、格子造りの家がずらっと並んでまっしゃろ、お茶屋が並んで四角い行灯に『大梅(だいうめ)』と書いた家の前に立って」と表現されている。宝永5年(1708)に町繁盛のため茶屋商売許可を求め、坂町は茶屋商売の町となり、安永年間(1772〜80)には遊郭も現れ、明治には南地五花街の一つとして賑わった。
上さんの口合の威力は如何に
上さんは茶屋に乗り込んで大騒動になる。甚兵衛はんは「そうガミガミ言うて浮気が止むもんやないがな、その悋気止めなはれ」と言って上さんを諭す。在原業平と井筒姫の話をして浮気をやめるきっかけが「風吹かば、沖つ白波竜田山、夜わにひとり君が越ゆらん」という歌だったこと。小野小町が百日の日照りを雨乞いの歌を詠んで7日間大雨が降った話をして歌の徳と理について話す。和歌や俳諧、川柳が出来るかと聞くと、面白いこと言うて相手を笑わす口合ができると言う。甚兵衛はんに「題おくんなはれ」,と言う。餅屋の作兵衛はんが樒(しきび)持って通ったが、餅屋作兵衛樒(紫式部) 。打盤はうち番星(一番星)さん見つけた。菜と蕪(かぶら)では菜蕪(中村)鴈治郎。衝立(ついたて)を湯か水で拭いてるで、衝立拭こか水か湯か(一日二日三日四日)等、上さんは次々に口合で答える。演者によって新たに口合が付け加えられる。甚兵衛はんは上手いな亭主に言うてみと言う。亭主が帰って来て、今戻ったと言うと、上さんはもどった今宮、天下茶屋。叔母貴の所に行ってなと亭主が言うと、おばき(お前)百までわしゃ九十九までと、次々に口合で返す。亭主は乱心したと思い、堪忍や、お前を一人ほっといたからこんな変わってしもた、茶屋遊びはやめると上さんにあやまる。上さんは口合はよお効いた。どこぞに百日の日照りがあったら教えて、何をすんねんと問われると、口合で雨降らすというのがサゲ。
☆坂町(大阪市中央区千日前1丁目)への行き方
近鉄難波線、地下鉄千日前線日本橋駅(徒歩3分)