上方落語の聖地を巡る

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上方落語の聖地 大阪編5

第16回  桜宮

 花見の名所桜宮

   桜宮は大川東岸の地域で、原始時代は古河内湾内にあった。のち上町台地天満砂州が伸びた砂泥質の沖積層からなる低湿地帯にある。桜宮の名称は『摂津名所図会大成』には「当社其初ハ野田の小橋故大和川の堤の字(あざな)を桜野といふ所にありしを後世こゝに迁(まわ)すゆへに旧地の名を以て桜野宮と号せしがいつしか境内のほとりに数百株の桜を植しより今ハ桜の宮と称して花ゆへなづけし如くなる」とあり、『摂津名所図会』には「この社頭に神木とて桜多し。弥生の盛りには、浪花の騒人ここに来つて幽艶を賞す。淀川の渚なれば、きよらなる花の色、水の面にうつるけしき、塵埃を避けて神慮をすずしめ奉るなり」と文人に愛される桜の名所だった。

堤防上にある桜宮の社 photo,2017
堤防上にある桜宮の社 photo,2017

屋形船で花見をするのが粋

桜宮全景(『写真で見る大阪100年  上巻』)
桜宮全景(『写真で見る大阪100年 上巻』)

  落語『百年目』が桜宮を舞台にしている。商家は主人である親旦那、使用人は丁稚、手代を経て番頭となる。番頭は手代以下に店の支配人としてにらみを利かさなければならない。小言を言った後、番頭の次兵衛は得意先を回ると言って出かける。堅い人のように見える番頭は実は結構粋な遊びをしている。店を出たのも太鼓持ちが迎えに来たことに気づいからだ。少人数で花見に行くつもりだったが、他の店にも知られ連れて行くことになり大屋形を一艘あつらえることになってしまう。高麗橋に大屋形を着けさせ仲間の連中を待たせて番頭は着替えてから船に乗り込む。船で行って、花見をして船で帰るというのが粋な花見だった。上の写真のように花見時には桜宮社頭と対岸を往来する渡船があった。

堅いはずの番頭が内緒で花見

   左の絵には「川をはさみて両岸の花、爛漫として水に映じ、川風花香を送りて、四方(よも)に馥郁(ふくいく)たり。さる程に都下の貴賎老若、陸(くが)を歩み、船にて通ひて諷(うた)ふあり、舞ふありて、終日(ひめもす)遊宴す。げに浪花において花見の勝地といふべし」と記され、絵の中にも屋形船が描かれている。旦那に内緒の花見だったので、知った人に会ったら困るからと大川に出ても船の障子を開けさせなかった。高麗橋から桜宮までは2〜3㎞の距離だが大屋形は船足が遅いの番頭は酔いも回り障子を開けさせると「花は今が満開で薄紅の刷毛でさあっと流したよう。ドロツクドンの散財をしている奴があるかと思うと、ご家族連れでゆっくり見てる人もある。あっちでは喧嘩してる奴がある。こっちでは反吐ついてる奴がある。千差万別の春景色」と桜宮の様子を表現している。太鼓持ちの茂八は扇子で顔を隠せると言って番頭を花見に連れて行く。親旦那と桜宮に来ていた医者の玄白は「あそこで芸者やなんか集めて踊ってるのお宅の番頭でっせ」と言う。旦那は番頭に分からないようにそばを通り抜けようとするが、太鼓持ちと間違えて旦那を捕まえ、顔を合わす羽目になる。店に帰った番頭は荷物をまとめて逃げるたほうがいいか、留まるほうがいいか夜通し迷う。朝になって旦那は番頭を呼んで「昨日は妙な挨拶したな、長いこと会わんようなこと言うたが、何であんなこと言うたんや」サゲは「えらいとこ見られて、こらもう百年目やと思いました」
   左下の写真は享保5年(1720)に心中した紙屋治兵衛と曾根崎新地の遊女小春を主人公にした浄瑠璃「心中天網島」の比翼塚、横は寛文8年(1668)に網島の漁師生け捕った大鯉が大坂夏の陣で討ち死にした武士の霊で「鯉塚」を建てて弔った。これらは大長寺にある。
☆桜宮神社(大阪市都島区中野町1丁目1-12-32)への行き方
  JR大阪環状線桜ノ宮駅(徒歩7分)、JR東西線大阪城北詰駅(徒歩10分)

桜宮(『浪華の賑ひ 初篇』)
桜宮(『浪華の賑ひ 初篇』)

第17回  淀屋橋

現在の淀屋橋 2016
現在の淀屋橋 2016

 淀屋の二代で繁栄の基礎が

   淀屋橋は「江戸期の豪商淀屋が米市の利便のために初めて架橋」(『角川 日本地名大辞典27大阪府』)。現在のコンクリート橋は昭和10年(1935)に完成。長さ53.5m、幅36.5m。「往昔(むかし)この橋詰に淀屋巨庵(こあん)といふ豪富の者ありて、諸国の米穀を買ひ集め、この橋爪において毎朝市を立てて、諸人に商ふことその数限りしられず」(『浪華の賑ひ  三篇』)とあり、その繁栄がうかがえる。淀屋は山城国岡本荘出身で本姓を岡本といい、初代常安が豊臣期に大坂に出て材木業を営んだ。常安は屋敷地に青物・魚類市場を開設し、中之島を開発した開発町人だった。淀屋一族は本家の淀屋橋家、分家の常安町家、大川町家、斎藤町家から成り立つ。本家の二代言当は个庵(巨庵こあん)と称し、淀屋米市を開き、主として西国諸藩の蔵米の販売を藩役人に代わって委託される町人蔵元の開祖となる。元禄10年(1697)には米市は堂島に移る。この二代で基礎が築かれる。

「雁風呂」の絵解きから

  落語『雁風呂』は淀屋にちなんだ話。舞台は東海道掛川の宿で簡易食堂も経営している旅館。食堂と旅館の境目に置いてある屏風を巡る話。食事を済ませた浪人風の侍が勘定する時に土佐将監光信の偽物だと屏風をけなす。その話を聞いていた水戸黄門は助さんに偽物じゃあるまいと言いながら、屏風の図柄で「松が生えておって、雁金が群れ飛んでおる。その下に積み上げてある物は何じゃ」と問う。そこに商売人風の格好をした二人連れが入って来て、屏風を見て「こりゃ、光信の筆に違いないが、お前さん、この絵何じゃ分かるかえ」と尋ねると、「雁風呂(がんぶろ)」だと答える。黄門さんは商人に絵解きを依頼する。雁が冬寒い所から日本に飛んで来る時に小枝を口にくわえて飛んで来る。大きな海を越える時に小枝を水の上に落として羽を休める。函館まで来ると勢揃いして小枝を木の根元に落として日本に飛んで行く。春に北へ帰る時に、ここに勢揃いし雁が1本ずつくわえて飛んで行く。帰った後、何百本という小枝が残る。小枝の数だけ雁は日本で死んだので、供養のため小枝で風呂を焚く。旅人や遍路を風呂に入れ、粥を食べさせ困った人に草鞋銭などを与え、雁の供養をするのが雁風呂。


潰された淀屋辰五郎を助ける黄門さん

  「話を聞かしてくれた」と黄門さんは商人の名前を尋ねると、淀屋辰五郎と答えた。 淀屋の5代目広当(通称辰五郎)が幕府から闕所・所払いを命ぜられたのは宝永2年(1705)。当時の記録『元正間記』には「家作の美麗たとへて言へき様なし、大書院・小書院きん張付金ふすま、……ひいとろの障子を立、天井も同じひいとろにて張詰め」(『大阪府史 第五巻』)と当時としては珍しいガラスの障子が使われるなど華美な生活が最大の理由で、大名や幕府への巨額の融資も大きな原因と推測できる。大名に融通したお金の半分でも、三分の一でも返してもらえたら奉公人も路頭に迷わずに済むと思ってお願いに上がっていると辰五郎は言う。借金をして頭の上がらなくなった大名が難癖を付けて淀屋を潰したことを知っている黄門さんは気の毒に思って、身分を明かして一筆書いて、一番借金の多い柳沢の屋敷に持って行きなさいと言う。雁風呂の絵解きをしただけで、半分諦めていた金が取れるわけでございますがな。サゲはそらそや、雁金(借金)の講釈をしたんや。

   左下の写真は明治6年(1873)頃の淀屋橋北詰から土佐堀川沿いやや西にあった加賀藩の蔵屋敷と思われる。大坂市場の蔵米取引は、土佐堀川沿岸で行われた。
☆淀屋の屋敷跡(大阪市中央区北浜4丁目1)への行き方
   地下鉄御堂筋線、京阪本線淀屋橋(徒歩2分)     

闕所・所払いになった淀屋の屋敷跡 2016
闕所・所払いになった淀屋の屋敷跡 2016

第18回 大川町

 昔は宿屋街だった大川町

   大川は天満川とも呼ばれ、全長約4.4㎞で旧淀川本流の最上流部。「土佐堀川の左岸は、諸国から来る船の船着場で、大川町(土佐堀通)の淀屋橋南詰から肥後橋南詰に至る間の両側には、昭和のはじめまで旅館などがびっしり建てつまっていた」(『続 東区史 第三巻』)。
    落語『高津の富』に大川町が登場する。宿屋街であった大川町に「わしゃ因州鳥取の在のもんでな、これでも土地では物持ちとか金持ちてなことをな」と大きなことばかり言うオヤジが泊まる。宿屋だけでは食べていけないので、色々と周旋をしていると言って、一枚だけ残った富札を買ってくれと言う。大事に取っておいた1分銀を使う羽目になり、一文無しになる。城の馬場から天満の天神さん、天神橋筋をば南へ南へ松屋町、二つ井戸、道頓堀、心斎橋をブラブラ見物いたしまして、八幡筋を東へ高津神社にやって来る。後の展開は第2回「高津」をご覧ください。
   大川町は道路を建設するときに河岸側の建物を取り払って、昭和10年(1935)2月に現在のような遊歩道公園になっている。この公園には下左の碑と中の「方面委員民生委員始祖」として林市蔵大阪府知事の像がある。
☆大川町公園(大阪市北区中之島1丁目5)への行き方
   地下鉄御堂筋線・京阪本線淀屋橋駅(徒歩3分)


今は宿屋もない大川町から眺めた淀屋橋 2016
今は宿屋もない大川町から眺めた淀屋橋 2016

第19回 難波橋

ライオン像が印象的な難波橋  2016
ライオン像が印象的な難波橋 2016

 架け替えられた難波橋

   難波橋は中之島公園を挟んで堂島川と土佐堀川に架かる橋。天神橋、天満橋とともに浪華三大橋と言われた。江戸時代には公儀橋で下の絵のように大川に架かる200mを超える1本の木製の反り橋だった。明治9年(1876)に2本の橋になり、北の堂島川の橋は鉄橋化される。明治18年(1885)の大洪水で南の木橋が流され、船を並べその上に板を渡した船橋が設けられた。翌年に南側も鉄橋化される。明治44年(1911)にこの橋に市電を通そうするが反対があり、1つ東の堺筋に新しい難波橋を架け市電を通した。大正4年(1915)にパリのセーヌ川のヌフ橋を参考に改築された。旧難波橋は後に撤去される。現在の難波橋は鋼・コンクリート混合橋で長さ189.6m、幅21.8mで、昭和50年(1975)に完成した。左の写真のように両端に咆哮するライオンの像があることで有名。

 

夕涼みで賑わう難波

    落語『遊山船』は難波橋が舞台。夏の遊びは大坂では大川の夕涼み。難波橋近辺が随分賑わった。右の絵の難波橋は「長さ百十四間六尺、高欄壮観なり。この北詰、西の方は諸侯の御蔵屋敷、甍(いらか)を連ねて巍々(ぎぎ)たり。夏の夕は浜側に納涼(すずみ)の茶店をならべ、醴酒(ひとよざけ)・豆茶なんどを販(ひさ)ぎて、川風に苦熱を忘るる客をもてなす。按摩按腹・軍書講釈などありて、すこぶる賑はし」と記されている。話は喜六・清八が涼みに難波橋にやって来るところが始まり。橋の上は行き交う人でいっぱい。夜店も出て賑わう様子が上の絵からも窺える。氷屋のカチ割りや新田(しんでん)西瓜などの賑やかな売り声が再現されている。

難波橋(『浪華の賑ひ 三篇』)
難波橋(『浪華の賑ひ 三篇』)

橋と船の間で粋なかけあい

大正末期の難波橋((目で見る大阪市の100年  上巻』)
大正末期の難波橋((目で見る大阪市の100年 上巻』)

    橋の下は三味線や太鼓で賑やかな遊山船。屋形船は遊山客のための貸船で、屋形船の大きいものが大屋形でその周りには屋形船にお茶や食べ物を売りに行く「茶船」が行き来する。大坂の粋言葉・洒落言葉で「芸衆」と言われる芸妓、舞妓、中居、板場、太鼓持ち、「キャ」と言われる客が船に乗っている。この船の後に賑やかな稽古屋の船がやって来る。揃いのイカリの模様の浴衣を着ている。清八が「さても綺麗なイカリの模様」と誉めると、「風が吹いても、流れんように」と返した。清八は喜六に「お前とこの嫁はん、あんな洒落たことよう言わんやろ」と言うと、あれぐらいのこと言わいでかと言い返す。家に帰った喜六は清八とのことを話して、嫁に同じようなことをさせようと、押入れから汚れたイカリの模様の浴衣を出して着るように言う。喜六は天窓に上がって橋の上から見ているようにし、嫁には船に見立てたタライに入れる。「さても汚い、イカリの模様」と言うと、「質に置いても、流れんように」というのがサゲ。
  

夫婦で弁慶と知盛になって

   落語『船弁慶』も難波橋を舞台にしている。清八が「一人でも旦那衆が寄ってたんでは呑む酒が身に付かんちゅうので、今日はわれかおれかの友達ばかりで行こうという話になったんや」と喜六に言う。船には芸者も乗せて、一人前3円の出し合いと聞いて喜六は「嬶にどない言うて叱られるか分からん」と躊躇する。「高々3円ぐらいの銭でビクビクしやがって」と言われた喜六はいつも人のお供で来ているので馴染みの芸妓から「弁慶はん」と呼ばれている。自前で来ているのに「弁慶はん」と言われたら3円の割前が死に金になると言う。清八は誰かがお前のこと弁慶と言ったら俺が割前出したると言う。嫁のお松が帰って来て、着物を着替えている喜六に「何処行くねん」と問い詰める。清八はミナミの小料理屋で友達の喧嘩の仲直りをすると言って二人で家を出る。二人は難波橋に来て川一丸と書いた大きな船に通い舟で渡って行く。酒を呑んでヘベレケに酔った喜六を酔いざましに裸にすると赤いフンドシをしている。清八が白いフンドシで二人で源平踊りで騒ぐ。お松も近所のお咲と涼みに難波橋にやって来る。喜六を見付けたお松は通い舟で川一丸に乗り込み、喜六の顔を掻きむしる。喜六が突き飛ばすとお松は川の中へ。幸い浅瀬で立つと水は腰まで髪はザンバラ、顔は真っ青。流れてきた竹をつかんで「川の真中へすっくと立って、そもそも我わ桓武天皇九代の後胤、平知盛幽霊なり」とお松。扱帯を数珠の代わりに喜六は「東方降三世(こうざんぜ)夜叉明王、南方軍茶利(ぐんだり)夜叉明王、西方大威徳夜叉明王、北方に金剛夜叉明王、中央に大日大聖不動明王」と喜六。見ていた人は喧嘩と思ったが、夫婦喧嘩と見せかけて弁慶と知盛の「祈り」をやってる。本日の秀逸、「川の知盛はんもええけど、船の中の弁慶はん」と褒めると、桂文枝は「弁慶やない、割前や」、桂枝雀は「弁慶、清やん今日の割前取らんといてや」というのがそれぞれのサゲ。
☆難波橋(大阪市中央区北浜1丁目1)への行き方
   京阪中之島線難波橋駅(徒歩2分)、京阪本線北浜駅(徒歩4分)
 

能『船弁慶』(国立能楽堂、文化デジタルライブラリー)
能『船弁慶』(国立能楽堂、文化デジタルライブラリー)