上方落語の聖地を巡る

上方落語の聖地を巡る

メニュー

上方落語の聖地 大阪編6

第20回  天満

 天満宮に由来する地名

   天満は上町台地北西、大川の北岸に位置し、その名称は天満大自在天神(菅原道真)を祭神とする天満宮に由来する。白雉元年(650)難波長柄豊崎宮が造営され、都の西北を守護する大将軍社が祀られた。この地は大将軍の森と称し、後に天神の森とも言われ、現在も南森町としてその名が残している。延喜元年(901)九州に左遷される菅原道真が大将軍社で旅の無事を祈願した。天暦3年(949)村上天皇の勅命によって大将軍の森のあった地に天満宮が創建された。天満宮はもとは現在地の北方明星池の辺り(現紅梅町)にあった。江戸時代に大坂天満宮は記録に残るだけでも7度もの災害に遭い、享保9年(1724)の妙知焼け、天保8年(1837)の大塩平八郎の乱の大火では全焼した。現在の本殿は天保14年(1843)に再建された。時代には城下町整備として、天王寺一帯の寺町と天満の北の寺町に寺院を集中させた。元和5年(1619)に大川以北の地域が大坂に合併され天満組となり、北組、南組とともに大坂三郷を構成する。

大阪天満宮 photo,2017

大阪天満宮 photo,2017

子連れで初天神に

天満神宮(『浪華の賑ひ  初篇』)

天満神宮(『浪華の賑ひ 初篇』)

   落語『初天神』は天満宮が舞台。「嬶、羽織出してくれ」と親父、「隣行くから羽織出せ、風呂行くから羽織出せ、こないだも羽織着て便所行ったやないか、今日は羽織着て何処へ行きなはんねん」と上さん。羽織は江戸時代に町人に広がり、大商家の番頭格以上が使うものだから、貧しい庶民には高嶺の花。「1月25日、初天神やから天満の天神さんへ行くんや」、上さんは息子の寅も連れて行けと言う。親父はお参りを口実に、茶屋に娼妓を呼んで遊ぶ魂胆。連れて行く、行かないで夫婦が揉めている所に息子が学校から帰って来る。結局息子を連れて行くことになる。天神橋を北に渡ると、お参りの人を当て込んで、両側に食べ物店が並んでいると初天神の様子。天神橋は文禄3年(1594)に架けられ、大坂天満宮が管理。寛永11年(1634)に公儀橋となり、浪華三大橋で明治初期まで木橋だった。「天神橋長いな、落ちたら怖いな」という当時は誰もが知っている童謡があり、橋が落ちたことがあったようだ。左の絵には「菅神の聖廟多かる中に、わけて当社は他に越えて霊験あらたなるにより、遠近の貴賎常に詣して間断なく、社頭の繁栄浪華第一というべし。例月二十五日参詣群をなせり。なかんづく正月は初天神とて詣人往来の道に満ちて錐を立つる寸地なく、実に初春の大紋日(おほもんび)なり」と記されている。1月25日に道真に左遷の命が下った日とされ、毎月25日は道真の縁日で1月25日は最初の縁日で初天神と言われる。子どもはあれ買うて、これ買うてと親にせがむ。アメと凧を買ってやり、大坂城の馬場に行って凧揚げをする。親父が夢中になっていると、子どもが「僕にもさして」と言う。親父は「こんなもん子どものするもんやないわい」、サゲは「こんなんやったら、お父ちゃん連れて来るんやなかった」

   『米揚げいかき』には天満の源蔵町が出てくる。噺ではいかきの売り子になるために男が難波橋を渡って源蔵町のいかき屋重兵衛の所に行く。源蔵町は「西樽屋町の北にあり、天満堀川天神小橋西詰から西へ延びる両側町」(「大阪府の地名1」『日本歴史地名体系28』)と記されている。『北区史』添付の「大阪市北区旧町界町名図」に源蔵町が出ており、現在の西天満三丁目の西天満郵便局辺りになる。

夏に蜜柑食べたさに気病

  落語『千両みかん』も天満を舞台にしている。船場の大家の若旦那が病の床に伏せていた。大坂一の名医は「気病じゃ、胸に何ぞ思いつめてることがある」と診断。親旦那は番頭に若旦那の思いを聞きに行かせると、蜜柑が食べたいと言う。番頭は「お望みとあらばこの部屋をば蜜柑詰めにしてでも差し上げます」と言うと、若旦那はすぐに元気になる。親旦那は今日は6月24日(新暦8月15日)、どこ探して蜜柑がある。「やっぱり蜜柑おませんでした」と言うたら倅はガクッときて死ぬかもしれん。倅が死んだら、主殺し、町内引き回しの上逆さ磔と番頭は親旦那から責められる。真っ青になって、番頭は八百屋を駆け回るが、どの店でも相手にされなかったが、天満の赤物(もん)の問屋に行くように言われる。


天満の問屋でやっと見つけた蜜柑1個が千両に

   近世は食品の流通機構が再編成された時期で、一定の日時に売り手と買い手が問屋の集団街の市場で現物売買をした。天満青物市場は明応5年(1496)蓮如が大坂御坊を創立した時、門前に開かれた市に始まる。豊臣秀吉の時、淀川个庵の邸宅に移った。江戸時代には農民の出荷に便利な地として天満に移った。赤物は果物、青物は野菜。上の絵で「常に朝毎に市あり。また毎年極月二十四日の夜には紀国より多く積み上せるみかんをここにて市をなす事稲麻のごとく、諸人群をなす」と記されている。今はハウス栽培で1年中いつでも蜜柑は食べられるが、江戸時代には冬だけの物だった。赤物市場で一軒だけ年中蜜柑を囲っている問屋がある。蔵を探してもらうと一つ無傷なものがあった。蜜柑が必要な理由を聞かれ、若旦那の事を話すと、問屋は銭はいらんと言う。番頭は強情に売ってくれと言うので、問屋は千両の値段をつけた。番頭は落胆して店に帰り、事情を話すと親旦那は倅の命が千両なら安いと直ぐに買いに行かせる。蜜柑を食べた若旦那は病気が治り、蜜柑三袋を残し両親と番頭に食べてくれと言う。番頭は蜜柑三袋で三百両、暖簾分けして出してもらえるお金が五十両。サゲはええいままよ、番頭、蜜柑三袋持ってドロンした。

   昭和6年(1931)に大阪市中央卸売市場の設立で、青物市場は廃止される。

☆大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目1-1番8)への行き方
   JR東西線大阪天満宮駅(徒歩5分)、地下鉄堺筋線南森町駅(徒歩6分)

天満市の側(『摂津名所図会  巻之四』)

天満市の側(『摂津名所図会 巻之四』)

 第21回  今橋

鴻池家の由来を示した鴻池稲荷祠碑 2017

鴻池家の由来を示した鴻池稲荷祠碑 2017

 清酒で産を成した鴻池

   「難波の津にも、江戸酒つくりはじめて一門さかゆるも有。又銅(あかがね)山にかゝりて、俄ぶげんになるも有。……これらは近代の出来商人、三十年此かたの仕出しなり」と井原西鶴は『日本永代蔵』で急成長した大坂の新興町人について書いている。元禄元年(1688)に『日本永代蔵』が刊行されたので、30年前は17世紀後半は淀屋のような初期特権商人や開発町人に代わって新興町人が台頭したことが分かる。「江戸酒」は鴻池、「銅山」は住友で新興町人の代表である。鴻池家の先祖は山中鹿之介幸盛といわれ、長男山中新六幸元が天正8年(1580)播磨国三木城落城後、摂津国川辺郡鴻池村(伊丹市)に住み着き酒造を始めた。最初は濁り酒だったが、清酒の製法を発見し、慶長3年(1598)に江戸へ輸送販売して産をなした。左の碑は鴻池家の由来を示したもので「鴻池家の屋敷のうしろには大きな池があり、これを鴻池といった。これは村の名の由来となり、またその名前を大坂の店の屋号として用いた。鴻池家が酒造業を始めた年、屋敷の裏に稲荷の祠を祀って家内安全を願った」ことが記されている。伊丹市の鴻池家の発祥地に祠碑はあり、現在は児童公園。

鴻池にもらわれた幸せな黒犬

    落語『鴻池の犬』は今橋が舞台。船場の池田屋の旦那が店の前で音がするので丁稚の常吉に見に行かせる。白、黒、斑の三匹の捨て犬だった。常吉が世話をするというので犬を飼うことになる。そんなある日、「全身真っ黒の犬が御座いますが、あれが頂戴でけんものかとおもいまして」と男が訪ね来て、吉日を選び頂きに参りますと言う。十日程して、紋付に羽織・袴、手に白扇、鰹節一箱、反物二反、酒三升を手土産に「本日はお約束の犬を頂戴に上がりました」と。旦那は大層な扱いに気を悪くして、犬はやれんと言う。医者が手放した病人に易者か八卦でも見てもうて「全身真っ黒の犬の生肝取って飲ませれば治るや分からん」と言われて来たと推測する。男は今橋の鴻池善右衛門の手代の太兵衛と名乗り、坊が可愛がっていたクロが死んだ。似た犬を捜していとところ、クロに生き写しだったのでお願いに上がったと言う。鴻池家は大坂内久宝寺町に店を出し、海運業も始め、八男善右衛門正成は明暦2年(1656)に天王寺屋五兵衛に倣って両替商を始め大名貸しを行い、今橋鴻池家の祖となる。宝永2年(1705)に河内国若江郡で鴻池新田の開発を請け負った。元和・寛永年間に今橋通りの北に町家がなく、広い浜岸であり、次第に家が増加、人の往来が増え、東横堀川に「今新たに架けられた橋」という意味で今橋が架けられた。今橋通りは大両替商など豪商が軒を並べた。
   鴻池にもらわれた黒犬は「鴻池のクロ」と呼ばれ、大きな逞しい犬に成長し、犬の喧嘩の仲裁をしたりして大坂一の犬の大将に成長した。犬に追われた痩せて毛が抜けた病犬がクロの前に逃げて来る。挨拶をせず通ったので追われたのだが、事情を聞くと南本町の池田屋の生まれでクロの弟と分かる。悪い友達と盗み食い、拾い食いをして病犬になり捨てられた。「コイコイコイ」と呼ばれたクロは旦那の所に走って行く。「鯛の浜焼」を持って帰って来て弟に食べさせる。「コイコイコイ」で走って行くと「鰻巻き」を持って帰って来る。また「コイコイコイ」、今度は何もなし。「コイコイコイ」言うてはりましたがな。坊におしっこさしてはったんやがサゲ。
☆旧鴻池本宅跡(大阪市中央区今橋2丁目4-5)への行き方
   地下鉄堺筋線北浜駅(徒歩5分)
 

現在の今橋 2016

現在の今橋 2016

第22回  中之島

蔵屋敷からビジネス街に

   中之島は東端で大川を二分し、南は土佐堀川、北は堂島川に囲まれた東西約3,400mに及ぶ細長い中州で、面積4.86ha。舟運の便にめぐまれ、江戸時代には諸藩の蔵屋敷が集中した。大坂に最初の蔵屋敷を設置したのは天正年間 (1573〜92)の加賀の前田家だった。中之島の蔵屋敷は明暦3年(1657)に28、延享4年(1747)には36を数えた。明治4年(1871)新政府の蔵屋敷廃止で一時衰退するが、中之島は通商司・商法司の支署、大阪裁判所、府立図書館、日本銀行支店、大阪市役所、中央公会堂などの官庁・公共施設などが進出し都心を形成した。明治24年(1891)に大阪市で初めての公園となる。


胴斬りにあった男の胴と足がそれぞれ仕事をして

   落語『胴斬り』は中之島が舞台。江戸時代の特権階級である侍には名字帯刀が許されていた。新身の一刀を携えて「この刀の斬れ味を試してみたい」と常安橋辺りにやって来た。江戸時代初期に中之島を開発した淀屋常安が土佐堀川に架けたのが常安橋。この辺りには多くの武家屋敷があった。寂しい蔵屋敷の横手で侍が待ち構えていると、能天気な男が風呂帰りと見えて濡れ手拭いを持ってやって来る。居合抜きで体が真っ二つになる。胴は斬られた弾みに横手の天水桶の上に乗った。この場所に通り掛かった友達に背負ってもらって何とか家に帰ることができた。胴斬りにあった男の胴は風呂屋の番台で、足は麩(ふ)踏む職人として働いた。胴は足に「目がかすむので足の三里に灸を据えてくれ」と言付ける。足も胴に水や茶あんまり飲まんように言うてくれという。どういう訳やと問うと、おしっこが近おてしょうがおまへんねんというのがサゲ。
   下中の写真は明治44年(1911)に枯死した松で、右が久留米藩、左が広島藩の蔵屋敷。
☆常安橋(大阪市北区中之島4丁目1)への行き方
   京阪中之島線中之島駅(徒歩7分)

右が現在の中之島 2017

右が現在の中之島 2017

 第23回  靭

昭和13年頃の永代浜(『写真で見る大阪市の100年 上巻』)

昭和13年頃の永代浜(『写真で見る大阪市の100年 上巻』)

 干鰯の全国取引の中枢地靭

   江戸時代初期に天満鳴尾町辺りの魚商人が移住し、魚商人が集住する靭町となった。水利の便が悪く、下船場に新開地を造成し、そこに移住し新靭町を形成し、靭町は本靭町(もとうつぼちょう)と改称した。荷揚げの便のため、寛永元年(1624)に幕府の許可を得て、海部堀川を開削し永代堀で阿波堀川と繋いだ。永代堀の岸が永代浜で、海産物や肥料として重要だった干鰯の荷揚げ場や市場が設けられ賑わった。


コタツの土で作った丸薬で

   落語『牛の丸薬』に登場するのが靭。正やんは春になって、使わなくなったコタツを干していると土砂降りの雨。土で作った大和ゴタツだったので、雨で使い物にならなくなった。コタツの土を丸めると薬のように見えるので、5、60個作った。友だちの米やんが来たので日当2円、昼飯付きで1日、体貸して欲しいと言う。次の日、二人は風呂敷包みを持って、朝まだ暗いうちに大阪城の馬場をはすかいに突っ切り、片町へ、東の空が白んだ頃、北河内の田舎に出て来た。  

大阪の干鰯屋と偽って

  ある村に目をつけ、 村の入口にある茶店のお婆さんに前から知っている様に話をして、この村の大きな蔵のある家の情報を聞き出す。米やんに合図をしたら牛小屋に行って、牛の鼻にコショウの粉を吹き込んだら、そっと帰って来いと言う。蔵のある家に行って、正やんはお婆さんから聞き出した情報を使って昔からの知り合いのような振りをし、大阪の干鰯屋と言う。この家の主人次郎兵衛はもう干鰯は要らんと言うが、安過ぎるような値段をいう。友だちが沢山干鰯を仕入れたが、 値下がりで大損をしたが何とか売捌きたいので、こんな安値になったと説明した。その時、博労が牛に変があったと言いにくる。 


牛の奇病に効く丸薬といって大儲け

    正やんはこれは奇病で、いい薬を持っているので手桶に水を入れて持ってくるように言う。薬を飲ます様な顔をして、牛の鼻に水を流し込む。鼻のコショウが流れて牛は元気に。次郎兵衛はこの薬を売ってくれと言うが、弟が発明した薬で特許の問題があるのでと売り渋る。干鰯の購入を考えるということで、他には内緒で売ることになる。村中の人が次々と売ってくれというので、村中の内緒でと持って来た丸薬は全て売れる。「干鰯や干鰯や言うて、ただ土丸めただけの丸子(がんじ)やで、一つ一円でぎょうさん儲けてホンマにもう。だいぶ懐が温くなったやろ。サゲは「温くなるはずや、元は大和ゴタツやがな」
   上の絵には「干魚は北国より多く積み来たり、この問丸にて市を立つる。これをまた諸国へ商ひ、農家の手に渡って細末とし、灰に合はせ田畑の養ひとす。これを肥(こや)しといふ」と書かれている。海部堀川は昭和26年(1951)の埋め立てられ永代浜も姿を消し、下の写真の碑が建てられた。現在の中央大通りは阿波堀川、本町通りは海部堀川になる。
☆永代浜跡碑(大阪市西区靭本町2丁目2-23)への行き方
   地下鉄千日前線阿波座駅(徒歩9分)、地下鉄中央線本町駅(徒歩10分)

永代浜 鱐魚市(ほしかいち)(摂津名所図会 巻之四)

永代浜 鱐魚市(ほしかいち)(摂津名所図会 巻之四)

 第24回 瀬戸物町

 陶器商の信仰を集めた地蔵会

   西横堀川の「西の岸には瀬戸物屋多し。なかんづく瀬戸物町と号する所には陶器の店軒を列ね、酒杯の小猪口より浜焼の大鉢まで寸尺の透間もなく並べ飾りて、美しくも甚(いと)目ざまし。また、この所に霊験あらたなる地蔵尊あり」(『浪華の賑ひ 三篇』)と記されている。明暦元年(1655)の水帳には陶器を業とするもの18軒・人数26とあり、早くから陶器商いの町として、延宝8年(1680)に瀬戸物町と改名された。明暦の頃、地蔵尊は7月23日・24日に仮堂を設け地蔵会が行われ多くの参詣者があったようだ。火防のご利益から特に陶器商の信仰を集めた。明治5年(1872)の神仏分離の混乱で地蔵会は中止になり、翌年新たに火防陶器神社が創建され、地蔵会は陶器祭として継承された。明治40年(1907)の都市計画で敷地に市電が通ることになり、翌年に坐摩神社の境内に移された。昭和20年(1945)の戦火で社殿は焼失し、昭和46年(1971)に坐摩神社の境内に現在の社殿が造営された。


一荷入りの壺で 二荷入りの壺を手に入れる

  落語『壺算』は瀬戸物町を舞台にしている。一荷入りの水壺が割れたので二荷入りに買い替えたいが、この家の亭主は買い物が下手。嬶に「徳さんは大体人間が悪賢いだけに、買い物が上手や。うまいことおだてて一緒にいってもらい」と言われたことを本人の前でしゃべってしまう。徳さんは「そこの朸(おうこ)と縄と持っといで」と言う。朸は天秤棒のことで値切るために使う。一荷は天秤棒の両端にかけて、一人で肩に担げるだけの荷物のことで、二荷はその倍。二人は天秤棒を担いで瀬戸物町までやってくる。瀬戸物屋の番頭に一荷入りの壺の値段を聞くと「軒並みずっと同商売でございます。朝商いのことでございますし、あんさん方のことでございます。決してお高いことは申しませんので。精々勉強いたしまして、うんとお安う願いまして、どんと負けたところが3円50銭が1文もまかりまへん」と言う。「軒並みが同商売やのうて、朝商いやのうて、あんさん方のことやのうて、安うせんと、負けなんだら何ぼや」と聞くと、同じ値段だった。縄と天秤棒を使って自分達で持って帰るからと交渉して3円 に値切る。一荷入りの壺を担いで町内を一周して元の瀬戸物屋に 戻り、ニ荷入りの壺と買い替えたいと言う。二荷入りの壺の値段は6円。一荷入りの壺を3円で下取り、金で3円渡しているから都合6円になる ので二荷入りを持って帰ると言う。勘定が合わないと思いながらも、訳がわからなくなった番頭は「この壺持って帰っとくれやす」と言うと、こっちの同じ思うツボや、というのがサゲ。

☆火防陶器神社(大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3)への行き方
   地下鉄中央線本町駅(徒歩5分)

火防(ひぶせ)陶器神社の拝殿  2016

火防(ひぶせ)陶器神社の拝殿 2016

X