上方落語の聖地 大阪編3
第8回 道頓堀
なぜ道頓堀は芝居町になった
道頓堀は慶長17年(1612)から開削、元和元年(1615)に完成したと考えられる。道頓堀の名称は一般的に最初に開削の中心的役割を果たした安井道頓からきた言われてきたが、佐古慶三氏の研究から道頓は安井氏ではなく成安氏の出身が正しく、定説は容易には訂正されなかった。成安道頓は大坂の陣で大坂方につき大坂城中で戦死したといわれ、平野藤次郎と安井九兵衛(安井道卜)は徳川方につき、この二人に道頓堀の完成とその両岸に町家を作り、町人を誘致し繁栄させるよう命じた。安井九兵衛が道頓堀の開発に伴う地域振興のため、芝居町を勘四郎町(現在の南船場)からこの地に移すことを請願した。左の写真の石碑は道頓堀を完成させた安井、平野両氏の屋敷があった日本橋に建てられた。道頓堀を挟んで、北側が島之内、南側は芝居櫓が立ち並んでいることから芝居側とよばれた。 日本橋と戎橋の間が芝居側で、東から順に竹田の芝居(のちの弁天座)、若太夫座(廃座)、角丸座(朝日座)、角の芝居(角座)、中の芝居(中座)、筑後の芝居(戎座から浪速座)と並んでいた。角丸座を除く五つが道頓堀五座。
閉じ込められた蔵の中で芝居
落語『蔵丁稚』では道頓堀が舞台になっている。この噺では芝居好きの丁稚が登場する。丁稚は商工業の家に年季奉公する幼少年者のことで、10歳前後で丁稚入りし、その頃は本名で呼ばれず、「こども」と呼ばれた。15〜16歳のなると本名の頭字に「吉」や「松」を付けて呼んだ。丁稚の定吉は船場から島之内の田中屋まで使いに行くが、朝の10時過ぎに出て5時前に帰って来る。店の旦那は定吉が道頓堀に居たことを向かいの佐助はんから聞いて、芝居を見てたんやろと言う。定吉は使いに行く途中で母親に合い、父親の病気を治すために千日前のお不動さんに行くと言うので一緒に行ったと言い訳をする。千日前のお不動さんは法善寺の水掛不動尊のこと。正月に父親が年始の挨拶に来たことを言われて、答えに窮した定吉は芝居なんか大嫌いやから見てまへんと言う。明日、店の者全員で芝居見物に行くが、嫌いやったら留守番せいと言われる。見に行く芝居は『忠臣蔵』の通しで、五段目の猪がええ、前足を中村鴈治郎、後足を片岡仁左衛門がやると旦那が言う。定吉は偉い役者はせえしまへん、わては今いまで見て来たから知ってると旦那の計略にかけられ、三番蔵に閉じ込められる。御飯抜きで蔵に入れられたので、空腹を忘れるために蔵の道具を使って芝居を演じる。定吉の様子を見に来たおなごしのお清どんは刀で腹を切っていると勘違いして旦那に言いに行く。旦那は慌ててお櫃(ひつ)を抱えて三番蔵へ行き「ご膳(御前)」と言うと、「蔵の内で(内蔵助)か、待ちかねた」というのがサゲ。
番頭の足が上がる
落語『足上がり』では芝居の好きな番頭がお供の丁稚を先に帰して、旦那には播磨屋さんで碁を打って遅くなると言わせる。店に帰った丁稚は言われた通り言うが、旦那は今まで播磨屋さんはここに座ったいたと迫る。丁稚は番頭と一緒に芝居を見ていて遅くなったと白状する。歌舞伎の席は桟敷、平場(土間)、立見で構成されている。話では中座で御茶屋の女将、芸妓、舞妓、中居を連れて最も高級な桟敷を借り切ってと、かなり贅沢のものだった。番頭が「みな筆の先から出るんや」と使い込みをしたことまで言ってしまう。怒った旦那は番頭の足を上げる、つまり解雇することに決めた。この日見たのは「四谷怪談」で店に帰った番頭は丁稚が見られなかった場面を話して聞かせる。幽霊が出る場面で丁稚は恐がると、番頭は蚊帳の後ろに入って「宙に浮いたようにみえるやろ」というと。「宙に浮くはずや、最前に足が上がってまんがな」というのがサゲ。左の写真は昭和13年(1938)1月1日の中座の新春興行で招き看板と飾りつけがにぎやか。
☆道頓堀(大阪市中央区道頓堀1丁目10)への行き方
地下鉄御堂筋線難波駅(徒歩5分)、近鉄難波線難波駅(徒歩6分)
第9回 千日前
千日前の謂れは
寺町の形成とともに墓所の移転もおこなわれた。元和7、8年(1621、2)市中になった阿波座村・三津寺村・上難波村・敷津村・渡辺村・津村の墓所を市外の下難波村に移し、後の千日の墓所となる。墓所の移転によって形成された大坂七墓の1つになる。千日寺は千日念仏回向に由来する名称で、元禄時代には道頓堀の南に法善寺と竹林寺があった。法善寺は寛永21年(1644)に、竹林寺は寛文4年(1664)に千日念仏を始めた。千日前は千日寺の前の意味で、千日寺は法善寺と考えられている。千日念仏は「特定の日に詣でると千日の功徳があるといわれた千日参りに因んだもの」(脇田修『近世大坂の町と人』)。千日墓地は千日前の火屋(ひや)とも呼ばれ、焼場・刑場を伴った。左の写真のビッグ・カメラの場所が西墓地で、千日前筋の東側に刑場、自安寺、南側に東墓地、さらに南に焼場・斎場があった。
死人のカンカン踊りで脅して
落語『らくだ』に千日前が登場する。 貧乏長屋のラクダの卯之助の所に兄貴分弥猛(やたけた)の熊五郎が訪ねて来ると、ラクダはフグに当って死んでいた。処置にこまっていた熊五郎の所に紙屑屋がやって来る。葬礼の手伝いをさせるため紙屑屋を呼ぶ。ラクダの家の家財道具を売ろうとするが売れる物は何もなく、紙屑屋に繋ぎ(祝儀・不祝儀の付き合いに出し合う金銭)を長屋の連中から集めに行かせる。家主には夜伽(よとぎ)の真似事をするので、酒三升と煮染めなどを死人のカンカン踊りをさせると脅して出させる。漬けもん屋で棺桶にする古い漬けもん樽を貰ってくる。商売に行くという紙屑屋に家主からとどけられた酒を飲んでから行けと無理に飲ます。何杯か飲んで酔いがまわると紙屑屋は強気になってきて立場が入れ変わる。この変化が面白い。
ラクダと間違えて坊主を焼く
熊五郎と紙屑屋はラクダの髪を剃って桶に入れて千日の火屋(焼場)まで担いで行く。日本橋の北詰めを西に曲がり、太左衛門橋の欄干で桶の底が抜けてラクダが落ちてしまう。急に棺桶が軽くなったのでラクダが落ちたことに気ずく。太左衛門に戻ると酒を飲んで寝ていた願人坊主(乞食坊主)をラクダと間違えて桶に入れる。太左衛門橋の南の竹林寺近辺には非人(乞食)の集落である非人垣外(かいと)や千日念仏をする聖の坊があり、坊主や乞食は多かった。火屋に行き棺桶を焼き始めると、中にいた坊主は「熱い」「出してくれ」と叫び、「ここはどこや」と問う。「ここは千日の火屋じゃ」と応えると「冷や(火屋)でもええから、もう一杯くれ」というのがサゲ。
墓所がどのようにして繁華街になったのか
近世の大坂では七墓で火葬と土葬が行われていたが、明治6年(1873)に火葬の禁止、さらに火葬場の廃止の太政官布告が出される。飛田や再開発が始まった千日前の墓地は天王寺村に設けられた阿倍野墓地に移転される。大阪府は灰を片づけ、土地を分譲したが、買手がつかなかった。墓地や処刑場があった千日前の暗いイメージは容易に払拭されず、開発には尻込みする者がおおかった。見世物小屋を掛けたが、人が寄りつかないので、露店や屋台を出して人寄せを図った。道頓堀に近いこともあり、徐々に繁盛し寄席や映画館が集中する歓楽街へと発展した。☆千日前(大阪市中央区千日前2丁目)への行き方
地下鉄千日前線難波駅(徒歩3分)、日本橋駅(徒歩5分)
第10回 長町裏
色々な貧乏長屋の様子
落語『貧乏長屋』の舞台が長町裏で、裏長屋が出てくる。日本橋三丁目から五丁目辺りが長町裏だ。応神天皇の時にこの辺りは海辺で呉人が着岸したことから名呉の浜と呼ばれた。名呉(名護)町から長町となった。話の枕に長町裏と同じような裏長屋として北の福島羅漢前が引き合いに出されるが、新聞ルポ「大阪に於ける下等労働者の状況」(『大阪毎日新聞』)には明治20年頃に北区岩井町、難波毘沙門裏、北野蒸気長屋、北野焼寺、川崎橋屋裏、木津の赤手拭、松屋町小人屋敷、西九条などに貧民窟があったと紹介されている。また、家が三月の雛祭りの菱餅みたいに歪んでいる「三月裏」、6月(旧暦で真夏)のように暑いから裸で年がら年中暮らす「六月裏」、長屋40軒で釜が一つしかなく毎朝クジ引きで飯炊く「釜一つ裏」,戸を焼いて燃料に使っているので家に戸が無い「戸無し裏」、大小便がお金になるので長屋の数より雪隠場(便所)の数の方が多く、通行人も入れるようにした「雪隠長屋」などの名前の付いたえげつない裏長屋だが、広さは「表口六尺奥行九尺計」(『守貞慢橋』)と畳二枚と土間だけだった。
貧乏長屋はなぜ日家賃なのか?
長町の歴史については大阪市役所教育部の調査資料「日本橋方面細民窟ノ沿革」(『不良住宅ニ関スル資料』)に元和5年(1615)、東町奉行久貝正俊が旅籠10株を許可したことに始まり、都市化とともに「細民下層労働者其他悪漢無頼ノ徒ノ巣窟」となったので、寛文3年(1663)に町奉行石丸定次が長町裏に長屋を建て、「細民」のこの地域以外の居住を認めなかった。江戸時代に長町は1〜9丁目で、その後1〜5丁目は日本橋筋と改称し、6〜9丁目が対象になる地域だ。明治維新期の動乱や松方デフレで食いつめた地方の人々が大阪に流入した。明治には裏長屋が東側に52軒、西側に51軒あった。表通りに家主が設置した木戸を通り抜けて裏長屋に入る。住人の7割が日極の家賃で落語でも「日家賃」と表現され、「貧乏人の巣窟ともいふべき所にて家賃の如きも他とは違ひ一日一銭乃至二銭と日々取立」(『大阪朝日新聞』明治23年3月23日)てる独特のものだった。裏長屋の連中は家賃を払わないことを当たり前のように言っている。家賃は余り厳しく取立てられなかったようだ。
喧嘩の真似をして人の酒を呑む
朝、雨が降って仕事に行けなかった長屋の連中は花見に行く。ご馳走はたくあんを卵焼きに、オカラをサワラの子の積りで持って行く。着る物がないので紙の着物や裸に墨塗ったような格好で出かける。酒樽にお茶を詰めて持って行き酔ったふりをするが、最後はどうしても本物の酒が飲みたい。近くで太鼓持ちを連れて三味線太鼓で楽しいでいるグループの中に相対喧嘩(嘘の喧嘩)をして暴れ込む。その場の人たちが逃げているうちに、酒肴を飲み食いする。相対喧嘩に気づいた太鼓持ちが怒って一升徳利を振り回して戻って来ると、暴れ込んだ長屋の連中は「右手の一升徳利、頭かち割ろちゅうのんと違うんか」と言うと、太鼓持ちは「お替わりを持ってきましたんで」というのがサゲ。
どのようにして裏長屋が電器店街に
明治18年(1885)に大阪の市街地でコレラが大流行し、悪疫対策として翌年に「長屋建築規則」「宿屋取締規則」が出され、長町裏の裏長屋や木賃宿の移転と地域の再開発が計画される。明治24年に裏長屋の取り払いのため9126人を立ち退かせ、明治36年に大阪で第五回内国勧業博覧会の開催にあわせ開発が行われる。この頃、木賃宿街は釜ヶ崎に移って行く。日本橋は大正・昭和期に東京の神田と並ぶ一大古本屋街となったが、第二次大戦中に空襲で壊滅的打撃を受け、その跡地は戦後には電器店街として発展した。☆名護橋のあった場所(大阪市浪速区日本橋5丁目)への行き方
地下鉄堺筋線恵美須町駅(徒歩2分)
第11回 三ッ寺
空襲でも焼失しなかった本堂
落語『まめだ』に登場するのが三津寺。三田純市が桂米朝のために作った新作落語。まめだは豆狸で子どもの狸のこと。三津寺は道頓堀川下流の北岸で、古代には海浜で難波の三津(御津)と呼ばれた地域。天平16年(744)聖武天皇の勅願によって、行基が開創した。中世にはこの地域は石清水八幡宮領の荘園だった。文化5年(1808)に建立された本堂は第二次大戦の空襲でも焼失しなかった。下の絵の楠は昭和8年(1933)の御堂筋拡幅のため切り倒され、この楠で十一面観世音が彫られた。三津寺は真言宗大福院と言われ、御堂筋に面しており、寺の前の通りは三津寺筋と呼ばれている。
貝殻を体に付けた豆狸の死
落語では市川右團次の弟子市川右三郎という大部屋の役者が登場する。市川右團次は幕末から明治に上方で活躍した歌舞伎役者で、江戸生まれで四代目市川小團次の実子だが、役者として大成していた養子の市川左團次がいたので小さい頃に大坂道頓堀の芝居茶屋鶴屋に丁稚奉公に出された。江戸の実家に戻って役者に成るが、両親と不和になり大坂に帰り初代市川右團次を襲名する。早替わり宙乗りなどケレンで売った人で、弟子の右三郎もいい役をもらうため暇を見つけてはトンボ(宙返り)の稽古をしていた。三津寺の向かいで「びっくり膏」という家伝の膏薬を売る母親と二人暮らし。びっくり膏は膏薬を貝殻に詰めたもの。
右三郎が帰ろうとすると時雨が降り出し馴染み芝居茶屋で傘を借りて太左衛門橋を渡り三津寺筋へ出ると傘がズシッと重くなった。傘をすぼめても何もない。豆狸が悪さしやがったと、今度は呼吸を図ってズシッとすると、傘をさしたままトンボを切る。「ギャーッ」という声がして黒い犬のようなものが逃げた。翌日、芝居茶屋に傘を返して家に帰ると、母親が貝の数と銭一銭が合わないで一枚銀杏の葉が入っている。そんな日が何日か続き、三津寺の境内で豆狸が死んでいた。膏薬の使い方を知らず、体中に貝殻を付けていた。右三郎は豆狸が子どもに化けて毎日膏薬を買いに来ていたことを知り、可哀想に思って住職にお経を上げて、境内のどこかに埋めてくれと頼む。境内一面に散っている銀杏の落ち葉が狸の死骸に集まって来る。「お母ん見てみ、狸の仲間から、きょうさん香典が寄ったがな」というのがサゲ。しっとりした秋の風情を感じさせる作品。
☆三津寺(大阪市中央区心斎橋2-7-12)への行き方
地下鉄御堂筋線難波駅(徒歩6分)、心斎橋駅(徒歩6分)