上方落語の聖地 大阪編4
第12回 難波
窮民救済対策でできた難波新川
難波は古くは浪速といい、「なにわ」が「なんば」となまって残ったと考えられる。木津川下流、上町台地南西部に位置する標高2mほどの微高地で難波砂堆といわれた。左の写真の瑞竜寺があるが、下の絵には「当寺は難波村の北にあり。慈雲山と号す。鉄眼和尚の開基なるがゆゑに、俗になんば鉄眼といふ。諸堂の造立すべて唐山のごとくにして、菟道(うぢ)の黄檗山(おうばくさん)に彷彿たり」(『浪華の賑ひ 二篇』)と瑞竜寺が記されている。享保17年(1732)冷夏と虫害が西日本を襲った享保の大飢饉で甚大な被害が出た。この大飢饉に対して「難波村に幕府領から運上された米を納める米蔵をつくり、翌年、窮民を救済する対策として、道頓堀川と難波御蔵を結ぶ長さ約852m・幅約15mの新水路を開き、納米の輸送路を確保した。この新水路を難波新川、あるいは難波入堀川と名づけた」(『角川 日本地名大辞典27大阪府』)。米蔵は以前の大阪球場の辺りにあった。
丁稚を騙して若旦那は茶屋へ
落語『土橋万歳(どばしまんざい)』が難波を舞台にしている。「万歳」は今の「漫才」と違って正月に大夫と才蔵が鼓を持って面白いことも挟んで、めでたい文句を言って得意先を回るもので笑う芸であったようだ。三河、尾張、関西では大和が本場。話は船場の播磨屋の若旦那の茶屋遊びが過ぎるので家で謹慎させられる 。若旦那の張り番をしている丁稚の定吉に羊羹と20銭、笹巻きの寿司をやるからと騙して若旦那は家を飛び出す。風邪気味な親旦那の代わりに番頭が若狭屋の葬礼に出ることになる。この頃の葬式は野辺の送りと言われ町内の者が白い麻の裃を着て斎場まで行き、平服に着替えて家に帰る。番頭は裃を入れる上下挟(じょうげばさ)みを持たせるために定吉を連れて行く。帰りに定吉が若旦那が家に居ない様な事を言うので、番頭は行き先を当てたら寿司に茶碗蒸し付けて奢ると言う。定吉はミナミの大梅という茶屋に行き、難波の一方亭でご飯を食べるに違いないと言う。大梅は坂町の項で出てきたのと同じ茶屋か?一方亭は、下の絵のように難波村に料亭の一方楼があったが、これではないか。
土橋の出来事で若旦那は改心
番頭は丁稚を先に帰して、難波の一方亭へ行く。東堀の灰屋常次郎と偽って番頭は若旦那に会って意見をするが、口論になり番頭は階段から落とされる。番頭は肩を落として立ち去る。若旦那はもう家には帰らんと言うと、太鼓持ちは「鉄眼寺の達磨はんと根競べしなはれ」と言う。近くにある鉄眼寺は達磨を祀っており、面壁九年の座禅をしたことに掛けている。若旦那の一行は新町へ座替わりするため難波の土橋に差し掛かると、抜き身を持った追い剥ぎが現れる。若旦那を置いて皆逃げてしまう。若旦那は命乞いをし、着物でも金でもやると言うが、追い剥ぎは「今日限り、茶屋遊びを止めてもらいた」と言う。若旦那は追い剥ぎが番頭とわかると口論になり、番頭は若旦那を刀で斬ってしまう。うなされて夢から醒めた若旦那は「ここは何処や」「土橋は」と言う。番頭も同じ夢でうなされていた。夢とわかった若旦那は番頭に真面目になると誓う。夢で良かったが、主殺しに親殺しは「重罪で命がない」と話しているのを聞いていた定吉は泣いている。何故泣いているのかと聞くと、お父っあんは重罪どころか、大和の万歳でんがなというのがサゲ。
下の絵は森田乙三洞という難波の本屋が戦時中に疎開していた娘に送った絵地図だが、左に高島屋、右が南街会館で今のマルイになる。その上の出口土橋が難波の土橋になる。阪神高速1号環状線の下の大きな交差点の辺りにあった。
☆鉄眼寺(大阪市浪速区元町1丁目10-30)への行き方
近鉄難波線大阪難波駅(徒歩7分)、地下鉄御堂筋線難波駅(徒歩7分)
第13回 新町
三大遊郭のひとつ大坂の新町
徳川幕府は遊里・芝居などを民衆支配の必要悪として公認し、都市中心部から隔離した。京都の島原・江戸の吉原・大坂の新町が三大遊郭として成立した。「諸方の花魁を一ッ所にあつめ田圃を闢きて新たに町とせしゆゑ、世の人新町とよんで柳陌(くるわ)の惣名となれり」(【摂津名所図会 巻之四』)とある。新町は他の町と区別するため、周囲には竹垣(後に板塀)と溝渠が巡らされ、出入口は西の大門、次に東の大門、失火で新たに五カ所の門が設置された。写真の右は桜の名所で新町の廓の中心の九軒町の石碑、左は「だまされて来て誠なりはつ桜」の加賀の千代女の句碑で以前は料亭「勇」の前にあった。
新町の遊女は太夫を最高位に天神・鹿子位・端女郎に分けられる。太夫が居たのは官許の廓の吉原、島原、新町だけ。遊女の数は多い時で1200人以上で、吉原には及ばないが、太夫の数では吉原を上回った。「新町では遊女屋のことを置屋とよび、そこでは客をとらなかった。客は揚屋にいて、太夫、天神の方から出向いた」(『大阪名所むかし案内』)。下の絵は「太夫道中」で揚屋に行く太夫が長柄傘をさし、禿(かむろ)と呼ばれる若い遊女二人を連れて新町の九軒町を練り歩く。廓繁盛のために新町橋も設置された。
道中を止めて夏に冬の服装で
落語『冬の遊び』が新町を舞台にしている。「花魁道中」では太夫が豪華な打ち掛けを着て、大きな下駄を履いて八文字という特殊な足運びで廓の中を回る。新町では仮装行列のような扮装をするので非常にお金がかかった。一番の得意先は堂島の米相場師。話はある年の夏、堂島の旦那が4人連れで吉田屋にやって来て、「栴檀(せんだん)太夫を呼べ」と言う。吉田屋は新町の代表的な揚屋の一つ。旦那衆は道中の連絡を聞いていないと無理を承知で呼べと言う。吉田屋のお富は「堂島がへそ曲げて『新町へは行かんとこ』ちゅうなこと申し合わされたら、つぶれてしまう」と行列の止めて、太夫を連れ来る。暑いのに綿入れを8枚も着て平知盛の扮装をしている太夫の姿を見て、堂島の連中も「冬の遊び」ということで、綿入れの丹前と冬の着物に着替える。太鼓持ちの一八も冬の服装をするが、懐に懐炉を三つも入れられ、耐えられなくなって着物を脱ぎ捨てて庭へ飛び降り、井戸の水をかぶる。「何じゃその真似は」と言うと、一八は「寒行の真似をしとります」というのはサゲ。
新町で悪洒落が過ぎて
「享保9年(1724)元堺町・元京橋町・元相生町が開かれ、さらに明和元年(1764)金田屋正助が難波村のうち3町28歩の払下げを受けて町屋を開発し、難波新地となった」(『角川 日本地名大辞典 27大阪府』)。難波新地は芝居・相撲興行や見世物で賑わい、南地五花街の一つで、現在のミナミの繁華街の基礎となる。
落語『けんげしゃ茶屋』は前半は新町、後半が難波新地を舞台にしている。「けんげしゃ」とは験担ぎで縁起を気にする人のこと。船場の村上の旦那は新町の茶屋で腹痛いと言って、用意した粟餅を足元に転がして漏らしたふりをする。悪戯が過ぎて本当に便を出してしまい、それが評判になって新町に行けなくなる。
験の悪い事を言って楽しむ
村上の旦那はミナミの芸者国鶴に持たせ店に行く。本人も両親もけんげしゃで験の悪いことを言っては嫌がる顔を見るのが旦那の楽しみ。元日に国鶴のお父さん林松右衛門の名を読み込んだ「のどかなる、はやしにかかる、まつえもん」の祝いの句を「喉が鳴る、早や死にかかる松右衛門」とか、お屠蘇を土葬、黒豆を苦労豆など嫌がるような験の悪いこと言う。前の日に用意させた葬礼の行列を店に行かせ「冥土から死人が迎えに来た」と言わせる。表を通りかかった太鼓持ちの茂八は誰が死んだのかと入って来て、「おめでとうございます」と挨拶する。旦那は茂八に勝手に入ってきて、国鶴と悲しい別れ盃をしに来たのに、何がめでたい、もう贔屓にせんから帰れと怒る。しくじったと思ってすぐに死装束に着替え位牌を持って、茂八は「死に恥」と改名し、「頓死魂(年玉)の憂い(お礼)」の心はばかりの「祝い」ですと位牌(祝い)を出す。旦那は「気に入った、今まで通り贔屓にしてやる」。茂八は「ああ、めでたい」と言って、またしくじったというのがサゲ。
下の写真は新町の芸妓による大阪名物。芸妓は太鼓持ちの格好、老女は若い娘、幼い少女は大人の大人の女性、良家の娘が芸妓の姿で色街を歩くなど、大阪市中を変装した「お化け」埋め尽くされたという。大正9年の写真。
☆新町北公園(大阪市西区新町1丁目15)への行き方
地下鉄鶴見緑地線西大橋駅(徒歩6分)、地下鉄四ツ橋線四ツ橋駅(徒歩7分)
第14回 宗右衛門町
南地五花街の一つとして発展
宗右衛門町は「日本ばし北詰浜、かぢや町筋より西ハ戎ばし迄」(『宝暦町鑑』)の町で、北南道頓堀水帳(『大大阪』)に年寄山ノ口屋宗右衛門が記されており、町名の由来になったと思われる。この地域には人名が付いた町名が多い。道頓堀の芝居町の周辺にできた遊里がミナミ(南)と称された。18世紀には宗右衛門町にも遊所ができ、これらの地域は「南地」と呼ばれた。浜と呼ばれた九郎右衛門町・宗右衛門町は「粋どころ」と言われた。明治以降、九郎右衛門町、櫓町、坂町、難波新地、宗右衛門町が南地五花街と呼ばれ、ミナミと総称される。
茶屋で倅と顔を合わせて
落語『親子茶屋』が宗右衛門町を舞台にしている。男の道楽を「三だら煩悩」と言い、「呑む、打つ、買う」で酒、博打、女遊び。「爪で火を灯して貯めた親の子が、ロウソクで読む傾城(遊女)の文」と言い親が貯めた財産を道楽息子が使う。話では親旦那が倅の作次郎を呼んで意見をするが、真面目に聞かないので、最後に親と芸者のどちらが大事かと聞く。芸者が大事に決まってると言って、親旦那を怒らせる。島之内の万福寺で説教を聞いて来ると言って親旦那は出かけるが、若旦那よりニ、三枚上の道楽者。「南へ南へ、万福寺さんを後目に殺してミナミへ出て参ります。戎橋の北詰めをひょいと東へ曲がりますと宗右衛門町。何時に変わらず陽気にこと」と船場からの道筋と宗右衛門町の賑わいが表現されている。戎橋は「この橋すぢは今宮の戎社に参詣の正当(しょうとう)なるがゆゑにかくは名付けしものなるべし」(『浪華の賑ひ 二篇』)というのが名前の由来。親旦那は茶屋の二階座敷で芸者遊びをする。扇子で目隠しをして「釣ろよ、釣ろよ、信太(しのだ)の森の、狐どんを釣ろよ」の歌にあわせて鬼ごっこをするいつもの「狐釣」する。二階の派手な遊びに若旦那は勘定半分持つから入れてくれと言う。子狐として加わり、楽しんだ後で、扇子を外して顔を見合わせ驚く。親旦那は「倅か……必ず、博打はならんぞ」というのがサゲ。
☆宗右衛門町(大阪市中央区宗右衛門町)への行き方
近鉄難波線日本橋駅(徒歩6分)
第15回 長柄
交通の要所として
長柄は淀川下流、中津川と大川の分岐点に位置し、難波と北摂を結ぶ交通上の要所にある。遣唐使船に貢調物を積載するための港として船瀬が造営された。「難波においては、自然的地形に制約されて、陸上交通は極めて困難であった。陸上交通を確保するためには、橋を架けることが理想的」(『新修大阪市史 第一巻』)だが、難波堀江などは水流が速く架橋が困難だった。行基とその集団によって長柄橋などが架けられ、水上交通だけでなく陸上交通の確保にも大きな役割を果たした。長柄は江戸初期には西成郡に北長柄村・南長柄村に分村していたと思われる。
百文と一朱の袖の下で
長柄を舞台にした落語に『鶴満寺』がある。鶴満寺の住職は花見に大勢の人が押しかけて桜の枝を折ったりするので、寺男の権助に今年からは「歌を詠む方なら別じゃけど、花見のお方はお断りせえ」と言い付けて出かける。船場の旦さんが馴染みの芸者、舞妓、太鼓持ちの茂八を伴って枝垂桜の名所鶴満寺にやって来るが、門が閉まっている。寺男に桜見物に来たことを告げるが、今年から住職が替わり歌詠みはいいが、花見は断るように言われていることを告げる。船場から来た連中は皆歌詠みやから入れてくれと言うが、芸者連れの歌詠みがあるかと断る。権助の袖に天保銭百文を入れて花見をさせてもらう。酒を呑んでいるのを見て約束が違うと権助がやって来ると、今度は一朱を渡して、酒を呑みながら花見を続ける。木陰から様子を見ている権助を呼んで酒を呑ませる。権助も呑んで踊って騒いで寝てしまう。しばらくして、住職が帰って来て、桜の木の根元で寝ている権助を見つける。権助は歌詠みの連中が来たと言う。住職はどんな歌を詠んだのか聞くと、「花の色は移りにけりな、いたずらに我が身世にふる、ながめせしまに」と詠むと、住職は小野小町の歌「百人一首」やなと言う。権助は「百に一朱」しもた、何で分かったんですか。サゲは初めが百で、あと一朱もらいましたんや。
桜の木がない鶴満寺
左の絵には「天満十丁目すぢの北にあり。南長柄といふ。当寺の梵鐘(つりがね)は長州候よりの寄附にして、もとは唐土(もろこし)の器物なり。鋳銘に云ふ、大平十年二月云々。また、境内に糸桜の大樹ありて、花の盛りには幽艶にして騒人・墨客打ちむれて風流に乗ず」と鶴満寺が説明されている。枝垂桜の別名が糸桜。鶴満寺は「大坂の商人上田宗右衛門が廃寺の寺号を得て延享元年(1744)に普請を出願、寛延3年(1750)着工、宝暦4年(1754)に完成させた寺院」(『角川 日本地名大辞典 27 大阪府』)。桜の名所鶴満寺には現在桜の木はない。明治18年(1885)の大洪で枯れてしまった。寺の人の話では昭和20年頃には桜が1〜2本あったが排気ガスなどで枯れたとのこと。
☆鶴満寺(大阪市北区長柄東1丁目3-12)への行き方
地下鉄谷町線・堺筋線天神橋筋6丁目(徒歩7分)